デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

ブログはここで終了します...

 

f:id:kazuhotel:20200814141014j:plain

 

 ふとしたきっかけからブログを書きはじめ、気がつけば2000日目になりました。毎日更新して5年ちょっと。文章を書くことに慣れるためとトレーニングがてらはじめたことが、そこまで続くとは思ってもいませんでした。我ながらよく続けたと褒めてあげたいです。

 

最近は言われなくなりましたが、昔は「就職したらとりあえず3年は続けなさい」とよく言われていました。根性論ではなく、続けないと見えない、分からないことがたくさんあるから。そして、続けたことが後に必ず活きてくるからです。ただ、「じゃあ、続けて得られたのは何なの?」と聞かれても、正直具体的なことは答えられません。強いて言うなら、恐いものがなくなったぐらいでしょうか。苦手意識のあることでも続けられたので、何でも出来ると自信を持てた感じです。私がまわりに勧めているのは、何でもいいから続けてみること。毎朝〇〇するでもいいし、1日1回〇〇でもいい。続けることに意味があるからです。目安はやっぱり3年でしょうか。2~3ヶ月続ければ満足感は得られますが、続けることで得られる何かはその先にあること。「もう十分かな…」から、どれだけ続けられるかが重要かもしれません。

 

 

四コマ漫画を添えた第一弾の「デザインのはてな」から、現在の第二弾「デザインのあてな」まで、一度でも読んでくださった方には心から感謝しています。また、別のカタチでひっそりと何かはじめるつもりですので、もしご縁があったらお会いできればと思います。内容が薄く拙い文章ばかりでしたが、お付き合いいただき、ありがとうございました!

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

誰かの人生に関われる仕事?

 

f:id:kazuhotel:20200814140907j:plain

 

 自分の実家にあった家具。皆さんはハッキリと覚えているのではないでしょうか?私は家具屋さんに10年以上勤めていましたが、家具に魅力を感じたのは、そんな人の人生に関われる仕事だと思ったからです。ベッドなら、その人の人生の3分の1を共にしているわけです。よく考えたら、家具に限らず全ての仕事が誰かの人生に関わっているんですけどね。

 

自分の理想通りになんて進んでいませんし、上手くことが運ぶなんてまずありませんが、それでも私は今のデザインの仕事を選んで良かったと思っています。自分のつくった何かで、その一瞬の行動が変わったり、感情が揺らいだり、選んでもらえたりする。そんなことができるなんて、本当に素敵な仕事だなと。私は、直接的に人と深く接することはなかなか無いんですが、デザインを通じて人とたくさん接することが出来ました。時には、自分が込めたメッセージを全く知らない人がデザインを介して受け取ってくれたことも♪可能性は無限大です。世の中に評価されなくても、その人のデザインには大なり小なり誰かに影響を与える力が備わっている。大変なことも多いので離れたくなることもあるかもしれませんが、もし嫌になりそうになったら、そんなことを思い出してみてください。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

一人で考えてから、みんなで考える?

 

f:id:kazuhotel:20200814140733j:plain

 

 判断に迷ったり、行き詰まったときに人に相談するのは良いと思います。ただ、その場面ではすぐに解決してスッキリするかもしれませんが、自分でとことん考えてからでないと意味がないとも思っています。時代と逆行する意見で、仕事としても非効率ですが、聞きに行くのは一回待った方がいい。

 

間違えないと正解しても身にならない。私はそう考えています。例えば、自分で筋道を立てて考えた経緯を詳しく伝えれば、どこで道から外れてしまったのかを指摘してもらえます。でも、まだ進んでみていない状態で、どこで間違えたのかを聞いても、教える側は、「こう進むんだよ!」としか言えません。そうなると、次もまた同じところでつまずいてしまうのではないかと。これは、カーナビと似ていて、ナビを頼りに目的地にたどり着けても、また別の機会にナビ無しで同じ場所に着くことができない感じです。道を覚えない。でも、行けるところまで行ってみてから、ナビを使うと次はたどり着けます。すぐに聞いた方が効率良いのは分かりますが、自分の身になるようにするには、間違えることが必須のような気がします。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

悔しくて泣けるぐらい?

 

f:id:kazuhotel:20200814140620j:plain

 

 一度だけ、最後の最後で落選して悔しくて涙を流したことが過去にありました。感情を表に出さないタイプで、まわりから冷めた印象を抱かれる私が、まさかそんなふうに涙するとは思わず驚いたのをよく覚えています。

 

後々振り返ってみると、その理由はとても単純で、それだけのことをやって挑んだからでした。高校時代、3年生の最後の大会で負けても涙が出ないのは、それだけのことをやってきていなかったから。野球の甲子園で負けたチームがみんな泣いているのは、それだけのことをやってきたからです。もう1つ考えられるのは、仲間と一緒に頑張ってきたかどうか。私が唯一泣いたときは、ある人の想いを背負っていました。自分の頑張り以上に、誰かの何かが込められていると、「どうにか上手くいってほしい!」と神頼みしたくなるぐらいになります。ふと、こんなことを思い出したのは、久しくそんな経験をしていないなと思ったから。熱さを失ったわけでもありませんし、何をやるにも毎回本気で挑んでいますが、そこまでになる機会がほとんどなくなりました。また、そんな経験をしたいなぁ…。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

コミニュケーションがアイデアの源?

 

f:id:kazuhotel:20200814140503j:plain

 

 デザインの対象がグラフィックでもプロダクトでも空間でも、それが目に見えないサービスでも、すべてに人が関わっています。だから、人と関わってきた分だけ良いデザインができるとも言えます。「コミニュケーションが〇〇」と言われるようになったのは、きっとその部分が希薄なデザインが増えてきたからではないかとも思っています。

 

私はいわゆるコミニュケーション能力が高くはありません。人見知りもしますし、自分から積極的に知らない人に対してアクションを起こすようなタイプではありません。それでも、そこが無いとデザインなんてできるわけがないと考え、アクションを変えるようになりました。そのきっかけは、コミニュケーション能力の高い人と行動を共にしたこと。その人を見て学ぶところもありますし、半強制的に知らない人と接しなければならない状況になるからです。人と接するのが苦手でも、人と接して気付けることを近くにいて学ぶことができます。コミニュケーションはアイデアの源。自分から行けない人でも、得意な人に協力してもらうことで克服することができるので、心配する必要はありません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

小細工と工夫の違い?

 

f:id:kazuhotel:20200812151856j:plain

 

 若い頃、デザインの提案をしたときの反応が大きく2つに分かれていました。一刀両断されるケースと賞賛されるケース。当時はどちらも同じように提案している感覚でしたが、今思えば全く異なる内容の提案で、反応がそうなるのも当然でした。

 

簡単に言うと、小細工をした提案は「×」で、工夫をした提案は「○」。ただの屁理屈に聞こえるかもしれませんが、これは全くの別物です。内容が薄いのを誤魔化すように取り繕ったのが小細工。小細工は、それを全て取り払うと、薄っぺらいものだけが残ります。一方で、アイデアをより良くするのが工夫。工夫は、それを取ってしまうと魅力が半減します。具体的には、提案書に飾り枠をつけたり、カッコ良くしたりする言わば化粧です。それがあってもなくても内容は変わらない…。やるべきは、アイデアの展開や実現性を高める方法を考えること。限られた時間の中で提案をしなければならなかったりすると、内容はほどほどに小細工に時間を割く人と、提案書はシンプルになったとしてもギリギリまで内容を考える人に分かれます。言うまでもなく、必要とされるのは後者。書類がオシャレかどうかで内容の判断が変わる人はたぶんいません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

力試しの挑み方?

 

f:id:kazuhotel:20200812151758j:plain

 

 知識や経験を重ねていくと、全てではありませんが、求められているものが分かるようになってきます。そのため、そこに向かってアイデアを詰めていけば、そこまで大きくズレることはありません。きっと、上手くいくことも多い。ただ、そのやり方に慣れすぎてしまうと、自分の表現力や感性を磨くことが疎かになってしまうような気がします。

 

仕事ではない場では、私は自分の感性で腕試しをするようにしています。例えば、公募のコンクールなどでは趣旨や課題が設定されているので、読み解いていくと「ここがゴール」みたいなものが見えたりします。仕事と同様にそこに向かえば、ある程度の結果は期待できるというわけです。でもそれをすると、取り組む内容に変化はあっても、やっていることは普段と何も変わりません。だから私はそのゴールを狙わず、趣旨と課題だけは守りながら自分の視点で具体化をしていきます。つまり、自分の視点を試してみているわけです。仮にそれで結果がついてきたら、自分の素の視点も通用するものだと分かって、仕事にも生かせる武器になります。力試しの場で、過去の事例にのっとったり、審査員の趣味嗜好を調べていると、結果だけが目的のチャレンジになってしまうかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

自分の最高でようやく及第点?

 

f:id:kazuhotel:20200812151652j:plain

 

「このぐらいのクオリティーなら大丈夫だろう」で、大丈夫だったことは一度もありません。単純に自スキルの問題でもありますが、私は自分で100点を出せてようやく相手の及第点になると考えています。80点では、良いとも悪いとも判断されない。それは相手の立場になってみれば当たり前の話で、ベストでない提案を出されても「えっ!?」となりますよね。80点をベストの提案としても、相手はベストでないことが分かります。

 

全く具体性のない話ですが、これは私にとってとても重要なこと。「これ以上のアイデアはない!」と言い切れるぐらい考えていないと、まずプレゼンもできませんし、相手から指摘を受けても返すことができません。そこで、上手い具合にプレゼンできても返答できても、自分自身で最高ではないと分かっている以上、説得力もなにもないわけです。これも同様に相手の人は、経験があればあるほど簡単に見抜いてしまいます。過去に80点でも上手くいったりしていると、「80点以上あれば大丈夫♪」なんてつい思ってしまいますが、その時はたまたま上手くいっただけ。私が完璧にそうできているわけではありませんが、そこの部分は常に自分に問いかけるようにしています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

関係ないものに目を向ける?

 

f:id:kazuhotel:20200812151511j:plain

 

 アイデアに行き詰まる1つの原因として、直接的に関係するモノばかりに目を向けていることが考えられます。直接関係するモノは、言い換えると比較的簡単に想像できる範囲。当然、そこから作り出せるのは、誰もが考えるようなアイデアになってしまいます。そして、それが自身で分かっているから、行き詰まってしまうのだと思います。

 

そこで、私の場合は関係のないモノに目を向けます。散歩をしたり、運動したり、映画を観たり…。どれも無関係なようですが、頭の中から一度モヤモヤを外すことで、目に入ってくる情報を関係しているかどうかに関係なく、新鮮に受け取ることができます。その後、時間を置いてまた考えはじめると、「そういえば、あの時見かけた〇〇って…」「あの映画の主人公は、よく〇〇を触っていたな…」といったヒントになりそうなモノを思い出します。それが、すでに出していたコンセプトと結びついて、行き詰まっていたときには導き出せなかった答えになる。頭の中で直接的なことばかりになってしまうのは、考える手立てやボキャブラリーが足りていない状態。モヤモヤしているときこそ息抜きをしてみたり、日頃から手立てを増やしておくのがオススメです。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

いつかの準備?

 

f:id:kazuhotel:20200808101924j:plain

 

 私にデザインの仕事を依頼してくれる会社のほとんどが、自社にデザイナーを抱えています。つまり、自社でできることを外注しているわけです。ただ、自社にデザインができるスタッフがいるので、私への依頼は必要なときだけ。仕事が多くて自社で対応しきれない場合や、自社よりも私が対応した方が良いと判断された場合がそれにあたります。しかし、それがいつなのかは分かりません。

 

いつでも対応できる準備をしておくこと。それは、今の私のフリーランスという立場に限らず、会社員として働いていても同じだと思いっています。ずっと頼まれていない状態で急に頼まれても対応できなければいけないし、仕事が立て込んでいても対応できなければいけない。もちろん、物理的にスケジュールとして不可能な場合は除きますが、その点も含めて自分の状態をコントロールしなければいけないわけです。いつになるか分からずやきもきしますが、それでも「いつでもOK」を維持する。ちょっと気を抜いたりすると、急にチャンスが訪れるから厄介なんですよね。いつかの準備をするのは、とても大変で精神的にも堪えるところがありますが、いざ来たときに応えられると、「準備しておいてよかったな♪」と嬉しくなります。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

寄り道は楽しいから注意?

 

f:id:kazuhotel:20200808101838j:plain

 

 企画会議などのアイデアを出すような場で、話が脱線していくことがあります。変わった話題やおもしろそうなネタが出てきたりすると、みんな楽しいのでそこに意識が向いていく。散々盛り上がったものの、実は本当に考えなければいけないことがおざなりになっていた…なんてこともあります。

 

もちろん、目的に向かう途中で寄り道したことによって、さらに魅力的な企画になったり、完成度が増したりするケースもあります。その時は使えなくても、別の機会に生かせるとっておきのアイデアが生まれるかもしれない…。でも、そんな寄り道は稀。ほとんどの場合は、無意味な時間になってしまいます。雑談などから生まれるアイデアも確かにありますが、それは目的が頭にある中で、その解決の糸口を探ろうとしているから。時間に余裕があったりすればまた別ですが、仕事として行なっている以上、大勢でたくさん時間をかけて考えるというのは適切ではありません。会議などでは、進行役が上手くコントロールしてくれたりしますが、自分一人で考えているときは要注意。寄り道をしていることにも気付かずに時間が過ぎていってしまうので、気をつけた方がよいかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

通用しないけど出来ること?

 

f:id:kazuhotel:20200808101738j:plain

 

 自分の周りにいる優秀な専門家たち。あくまで私の知る限りですが、その人たちは、専門分野以外の様々なことを学んでいます。分野外のことが直接何かに活かせるところまで習得できくてもOK。そういった“通用しない”けれど出来る・知っていることを増やすことは大事だと考えています。

 

私の場合は、あるデザイン分野をメインとして活動していますが、その他の分野もある程度できる状態にしました。もちろん、その他の部分でも通用すればそれに越したことはありませんが、そんなに簡単ではありません。でも、ある程度できることで、専門が活きた経験がこれまでたくさんありました。製品にマークを印刷するとしたら、印刷の知識があった方がいいし、ある場所に掲載するポスターを作るとしたら、空間についての学んでいた方がいいわけです。何より、その道の人と話ができることが大きい。「自分でも出来ることだけど、もっと出来る人にお願いする」ぐらいまでできることなら学びたいところです。自身の専門分野を極めるのも1つですが、私の専門は〇〇だから!と自ら閉ざしてしまうのはもったいないこと。裾野を広げると、できることも増えていくので、今やっていることがもっと楽しくなります。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

これは良いモノなんですね?

 

f:id:kazuhotel:20200808101632j:plain

 

 歳をとるにつれて感性が鈍くなる1つの理由は、情報による感覚補正がかかってしまうからだと考えています。もともと持っている感性を否定する情報や、良いとされるものはコレだ!といった情報によって、良い意味でもわるい意味でも固定されていってしまうような気がします。

 

とりわけそのイメージが強いのが、芸術の分野。子どもの頃は「なんかこの絵いいな~」と、ただただ自分の感覚で観ていたものが、世の中の評価や価値を知ることで、「これは良くないのかぁ…」になってしまいます。そういった情報に囚われずに鑑賞すればよいのですが、それがきっと難しいことだから、日本ではアートが根付かないのかもしれません。私はデザインの仕事をしていますが、そこを目指そうとする過程でも、要所要所で感覚を補正してきたように思います。「ここはこうしないといけないんだな…」「こういう点を重視しないと通用しない…」もちろん、仕事にする上で必要なことの方が多かったはずですが、一部はもともと持っていた感覚を残していた方が良かったのではないかと感じます。世の中や周囲の価値観に全く左右されないようには出来ませんが、少し意識をして自分を維持するようにしてみた方がよいかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

実験したら考察する?

 

f:id:kazuhotel:20200805061644j:plain

 

 何かに挑んでみて良い結果が出なかったとき、気持ちを切り替えて次に向けて頑張るべきですが、同時に考察もしっかりとやる必要があると思っています。反省ではなく考察。提案のどこが具体的に足りなかったのか?受け入れられなかった理由は?採用された案との違いは?など、事細かに分析する。

 

こういう話をすると、相手の趣味思考に寄せたデザインにしたり、採用されやすい提案を真似たりするのはおかしい!と思われるかもしれませんが、そうではありません。そのケースで自分たちの提案を通すには何が必要かを知っておくということです。もちろん、直接相手に話を聞いたり、採用された他の提案をみることはできませんが、丁寧に自己分析するだけで、学べることがたくさんあります。「最重要視しているポイントはここだったのかもしれない…」「提案はわるくないけど、相手が頭に描けなかっただけかも…」と仮定して、その解決策を考えるわけです。誰しも、自分たちの提案を採用してほしい。そのためには、採用に近づくかもしれない方法を知っておくことは必要です。素晴らしいアイデアなのに、目に止めてもらえない理由が些細なことだったら、もったいないと思いませんか?

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain