デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

無駄の削りすぎ注意?

 

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 洗練されたデザイン。無駄がなく美しいフォルムで、徹底的に考え抜かれたモノであるといつも思います。ただ、それが欲しいかと言われると、答えは「特に…」。値段が高いから、必要ないからといった理由ではありません。普段から、実用性があるモノばかり買っているわけではないでからね。私がそれらを欲しくならない理由は、たぶん無駄がないからです。

 

「これ何に使うんだよ~」「この小さなポケット、何も入らないけど…」「カバンなんてたくさん持っているでしょ!」。そんなことを言いながら、私はよく買い物をしています。少なくても私にとっては必要な『無駄』。何かを考える際、よく7~8割考えたら進めた方が良いと言われますが、それは早く実行した方がメリットが多いという点だけではなく、そこに無駄な要素が含まれていた方がよいからだとも思っています。考えに考えて『無駄』を省いてしまうと、洗練されていく反面、纏っている不思議な魅力を削っていることになっているかもしれません。

 

 

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道に沿って歩く?

 

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 広大な敷地に、屋根の付いた遊歩道がありました。その日は晴天。何かのイベントがあったのか、たくさんの人で溢れていましたが、なぜかその人たちは皆、遊歩道に沿って歩いていました。わざわざジグザグに歩く必要もないのに、キレイに道に沿って歩く。ちょっと不思議な光景でした。

 

「レールの敷かれた人生なんて◯◯」「言われた通りにやるのは△△」などと言うことがありますが、無意識にそうするということは、もしかすると私たちはその方が心地よかったり安心できるのはないかと思いました。自由すぎるよりも、ある程度決められていた方が楽な経験はありませんか?仕事で部下に漠然と投げかけたり、自由に考えていいと言って任せても、あまり応えてもらえなかったりするのは、もともと私たちは自由すぎるのが苦手だからなのかもしれません。

 

 

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辛いけど食べたい?

 

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 月に1回は必ず行くインド料理のお店。私は辛いものがそこまで得意ではありませんが、ヒーヒー言いながら食べて後悔した料理をこの前もまた注文してしまいました。中毒性があるのか、Mっけがあるのか分かりませんが、自分に合っていないものだから求めてしまうところがあります。

 

辛いものが苦手な人向けに用意された料理は、辛いものが苦手な人は選ばないという話を聞いたことがあります。大人が考えた子ども向けの商品を、子どもたちが選ばないのと同じ。子どもが欲しがるのは大人が使っているものだったりしますよね。「本格的だとあなたにはちょっと厳しいでしょうから…」と言われているような気がして、悔しくて無理をしてしまうところもあります。仕事では、よく特定の対象に向けて何かを考えることがありますが、それらはその人たちにちょうどいいモノばかり。上手く行かないことが多いのも納得です。

 

 

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子供も大人も似たアイデア?

 

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 先日、応募したコンペの懇親会で、主催企業の社長さんと雑談していたら、おもしろいコンペの傾向を教えてくれました。「興味深かったのは、小学生も学生もプロも同じようなアイデアを出してきたことでね。もちろん、クオリティの差はあっても考えていることの根本はあまり変わらないんだなぁって…」。

 

私はたまに、仕事とは別のところでデザインのイベントに参加したりしてるんですが、そこで考えることは、「誰かをハッとさせたい♪」「これが使いたい人がきっといるはず!」など。楽しませたい、生活を豊かにしたいといったピュアな視点で考えています。でもよく考えたら自分が子どものとき、学生のとき、駆け出しのときは、その視点で考えていました。ただ、いつしか複雑に考えるようになり、目に見える結果や数字を追うように…。具体的でない年下のアイデアにダメ出しをしてしまったこともあったなぁと反省しました。

 

 

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絶対うまくいくと思う!

 

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 動き出すことに慎重で、やったことについて不安を抱いてしまっていた頃、「絶対にうまくいくよ!」と声を掛けてもらっただけで、なぜか自信を持って動けたことがありました。具体的な裏付けは何にもなくても、その言葉だけで自信になる。不思議なものです。

 

どんなに実績があっても、評価や裏付けがあっても、絶対に成功する保証はどこにもありません。だから、誰でも不安になるのは仕方のないこと。でもそんな時に、まわりに応援してくれる人がいるだけで、その不安は払拭できたりします。特に上司や先輩からのプッシュは、相当な自信になる。闇雲に成功するなんてことは言えませんが、そこに可能性が見えるものであれば、まわりを応援してみるのもアリです。誰だって自信が無いままのぞむよりは、自信を持って取り組んだ方がいいですからね。そんな声を掛けたら、少なくてもその人とは絶対に良い関係になれると思います!

 

 

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自分のやり方?会社のやり方?

 

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 はじめて会社に勤めた頃、自分の進め方ではうまくいかずに戸惑ったことがあります。進めるペースや過程、やること自体が、自分のやり方とちがっていたからです。少しずつ会社のやり方に慣れ、まわりと同じように仕事を進められるようになったのは、だいぶ経ってからでした。

 

その後、フリーランスで仕事をするようになってからは、お客さんによってやり方を変えています。A社さんと仕事をするときはA社さんとのやり方、B社さんと仕事をするときはB社さんとのやり方。仕事を離れて、自分で好きなことをやるときは自分のやり方でやっています。最近、入社した会社にうまく順応できないという相談を受けましたが、話を聞いてみると、その人は自分のやり方でどうにかやろうとしていました。もちろん、自分の中で守るところは守ってもいいんですが、守らなくていいところまで守ってしまうと息苦しくなるだけ。自分のやり方は自分のやりたいことをやるときに使えばいいと思っています。

 

 

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全部にいいね?

 

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 少し前からインスタグラムをやってみて感じたことがあります。それは、日本人は全部にいいねをしてくれて、海外の人は気に入った写真にだけいいねをすること。日本人は「ちゃんといいねを付けないと失礼かな…」なんて思っているかもしれません。気持ちはとても分かります。

 

私のまわりにいる先輩たちは、それで言うところの海外の人寄り。良ければ良い、ダメならダメとはっきり言う人ばかりです。きちんと自分の意見や感想を伝えることが礼儀だと考えているから。ちゃんと評価せずに、なんでも「良いと思う!」と伝えてしまうほうが失礼だと考えているわけです。「私は良くないと思う」と伝えて関係がわるくなるような人と付き合っていないだけなのかもしれませんが、私もその意見に賛成。他人から意見を求められてもハッキリと伝えています。もちろん、ストレートには言わなかったりもしますが、気遣いや礼儀をわきまえた上で伝えれば、揉め事になることはほとんどありません。

 

 

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急にオシャレな服は着こなせない?

 

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「もっと高級感のある感じに!」…私は前からずっとこの言葉に違和感を持っています。気持ちは分かりますが、高級でないモノを高級に見せることも本来はおかしいですし、仮に見せたところで、内容と釣り合っていなければ、取り繕っているように見えてしまうだけ。

 

例えば、私は普段、地味で安くて身軽な服を着ています。そんな私が高級スーツを着ても、そこに相応の高級感は感じられません。中身が伴っていないからです。品格やマナーを身につけていない私には着れない服。オシャレ最先端の服を纏っても、同じように着こなせず、装飾だけが浮いてしまうはずです。身なりによって中身が向上することは確かにあります。明るい服を着れば、なぜか性格まで明るくなったりします。でもそれは、外と中がそこまで離れていないから。離れすぎていたら、外側の魅力に引っ張られることもないと思いっています。

 

 

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鼻歌で歌えてもカラオケで歌えない?

 

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 私は音痴なのでカラオケが苦手。基本的に参加したくないのが本音ですが、妻に付き合って行くこともあります。一応、歌を覚えていこうと努力して家で鼻歌を歌ったりして…。そんな鼻歌で(自分の中で)手応えのあった歌をいざカラオケで歌ってみると全く歌えない。その繰り返しです。

 

本番で経験しないと出来るかどうかは分からない。歌のことはよく分かりませんが、ほんのちょっとふれてみて出来そうな感覚になると、本番でも出来るだろうと思ってしまうことがあります。想像で済ませてしまう感じ。私はどちらかというと自信過剰なタイプなので、やったことがなくても出来そうだと思うことが多いんですが、いざやってみると出来ないことがほとんどです。だから、恥ずかしいのは覚悟の上で、出来ない経験をできるだけするようにしています。「あっ、これは出来ないんだな…」。それが分かると、出来るようになろうと努力するか、出来ないことだと諦めるかの冷静な選択ができる。出来なそうで出来ちゃうこともあるので、想像で済ませず何でもやってみるのがオススメです。

 

 

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動きを追わない?

 

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 部活動でサッカーをやっていたとき、顧問の先生から「テレビの中継でサッカーの試合を観ても学べないよ」と教わりました。中継のカメラはボールを追いかけるので、味方が攻めているときにゴールキーパーや守備の選手が何をしているか分からないからです。「生の試合を観に行って、ボールがどこに行っても、自分と同じポジションの選手をずっと見ていなさい!」。

 

仕事などで、私たちはどこか一部の役割を担うことがほとんどですが、その仕事の動きを追いかけてしまいます。イベントの告知を任されていたら、告知作業が終わるとそのイベントの盛況ぶりを一緒になって楽しんでしまいます。それも仕事の楽しみの1つではありますが、もし今の自分の仕事を上司や先輩から学びたいと思っているなら、その時に自分と同じ役割の人たちが何をしているかに目を向けるべき。告知の効果を調べたり、今からでも間に合うさらに盛り上がる方法を練ったり、次の準備をしていたりします。目立つところはどうしても見てしまいますが、目立っていない時にやっていることの方にも大切なことがたくさん詰まっているので、誰か憧れの人がいたら、その人をずっと観察してみると良いかもしれません。

 

 

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伝わっているか自分で察する?

 

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 将棋棋士藤井聡太さん。メディアに取り上げられはじめた頃、彼はインタビューで少し難しい言葉を使っていました。「望外の結果…」「僥倖としか…」。気づいている人も多いかもしれませんが、今は誰もが分かる言葉を使うようになっています。それでは多くの人に伝わりづらいと自ら察して、伝わりやすく変えているんです。

 

私が仕事で身に付いたと実感できることは、先輩から教えてもらったことよりも自分で気付けたことの方が多いような感覚があります。だから、教えるときも、教える相手が自ら気づけるように伝えるのがいいのではないかと。指導経験のない私が言っても全く説得力がありませんが、言われたことを実行するのと、自分で「こうした方がいいんじゃないかなぁ」と考えて実行するのでは全くちがいます。後輩や部下が間違ったことをやっていたとき、それを具体的に指摘する方法もありますが、気づかせると方法もある。きっとそれは難しいんだと思いますが、今後も同じような間違いをしないように指導したいと思ったら、気づいてもらえる方法を模索してもいいかもしれません。

 

 

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続けるコツはただ続けるだけ?

 

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 毎日更新するブログをはじめて3年を過ぎた頃、続けるコツを聞かれたことがあります。文章を書くのが苦手な私が、マンガまで入れた記事を書き続けているなんて、何かコツがあるはずだと思ったのでしょう。でも、私は何も答えられませんでした。「う~ん、ただ続けるだけですかね…」。

 

こう言うと、パワハラサービス残業などの温床になると思われてしまうかもしれませんが、続ける方法はただただ続けるだけ。間に合わせる方法は間に合わせるだけ。ネタを思い付くコツは、なんとか捻り出すだけ…。結局は、意識の問題だと思ってしまいます。どこかで、続けなくてもいい…楽な方法があるはず…と考えてしまうと、今やっていることをキツく感じてしまいます。もしコツがあるとすれば、どうにか続ける中で自分に合ったやり方を見つけるぐらい。時代遅れな考えだということは分かっていますが、体育会系で育ってきた私には、自分でもがく前にスマートにできる方法を探すのはどうなのかなぁ~とつい思ってしまいます。

 

 

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本人以外の告知が効果的?

 

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 あるタレントのマネージャーは、そのタレントが出演するメディアの情報をSNSで逐一発信しています。「この後○時から□□が出演します!」「□□が受賞しました!」。本人は一切告知をしないスタイル。私は告知的な内容はスルーしてしまうんですが、それだけは不思議とチェックしてしまうんです。

 

応援している人の言葉は響く。最近はよくそう感じています。「私スゴいでしょ!」よりも「あの人スゴいよ!」に好感を持つ。それはきっと、応援をせがまれるのと、一緒に応援しませんか?の違い。フォローしてくださいと言われても関心は持ちませんが、友達がフォローしている記事は読んでしまったりしませんか?自ら発信することが大事だといったアドバイスを受けたりして、確かにそうだなと思う反面、自分の行動は本人の告知を敬遠しているところがあります。応援してくれる人をつくるには発信しなければならないけど、自ら発信しても敬遠される。むずかしいですね…。

 

 

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誰もいないお店は躊躇する?

 

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 はじめての飲食店に入ろうとするとき、私は世間の評価なんて気にせず自分の判断で入っているものだと思っていました。でもある日、いつもと同じようにそうやって入ろうとしましたが、忙しい時間帯なのにお客さんが1人もいないのを見て引き返してしまいました。それまでは、1人ぐらいお客さんが居たから入っていたのでしょう。世間の評価は気にしないと言いながら、結局は自分の判断だけで決めていなかったということにあらためて気づきました。

 

「最近、どんな曲聴いてるの?」なんて聞かれると、一瞬考えます「この曲を伝えていいものか…?」。すると、頭に浮かんだ曲が路上アーティストの曲でも、世間的にある程度支持されている曲に差し替えて答えたりします。ある程度の支持がないと選びづらかったり、誰かに話しづらかったりする。自分のやっているメディアや発信した情報がなかなか拡散しなかったりするのは、まだ、見た人が別の誰かに伝えたり、はじめての人が訪問しようと思えるほどの“ある程度の支持”がないのかもしれません。

 

 

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