ツッコミしろをつくる?
オフィス用品通販を展開している大塚商会の「たのめーる」。あのCMのダジャレを見て、視聴者は心の中でツッコミます。「変なダジャレだな~」「強引じゃない?」でもそれは作り手の狙い通り。そうやってツッコんでしまっているのは、興味を持ってしまっているということです。
興味を引く方法の1つとして、見た人がついツッコんでしまうポイントをつくるという方法があります。あえて間違った日本語を使う、違和感のあるものを入れる、イントネーションがおかしい、リズムが取りづらい、ダサい…などなど。有名なスポーツ選手をCMに起用するのは、もちろん興味を持ちやすくするためですが、不慣れな演技をさせたりするのはそこにツッコミしろをつくるためでもあると思っています。何も引っかからずにスムーズに見ることのできるものは、心に残らない。ストレスなく読むことのできる文章。分かりやすくて何の疑問も湧かない説明。すべてそれを見れば分かる伝え方。それらは確かに受け手も気持ちよく受け取れるのですが、同時にスムーズ過ぎて流れていってしまう場合もあります。もし記憶に留めてほしいと思ったら、少し引っかかるような表現を入れるのも時にはアリかもしれません。
一日定点観測?
都内のある駅を初めて訪れたとき、「この街は住みやすそうだな~」と素直に思いました。しばらく経ってから別の時間帯にその街を訪れたときには、客引きやたむろしている若者が目について、治安がわるそうな印象を受けました。一部を見ただけでは分からないものです。
例えば、平日の日中に訪れた街で、高齢者ばかりが出歩いているのを見ると、そこが高齢者の多い街となってしまいます。でもよく考えてみれば、平日の日中はその街に住んでいる若い人たちは働きに出ていているからいないと分かります。結局は、一日中、数日間と観察しないと実態は分からない。不動産関係の仕事をしている友人から、「物件を内見したその時だけで判断しない方がいいよ!」とアドバイスを受けたことがありますが、確かに日中のほんの一部分を見ただけでは、そこの雰囲気は分かりません。夜間や朝早くその街を見てみることが必要。ある会社では、社員を採用する際に面接をするだけではなく、報酬を支払って一日一緒に仕事をしてもらう方法をとっているそうですが、確かに面接の一部分だけを見るよりも、その人の実態が分かるかもしれません。
「曖昧」を具体的に?
アイデアスケッチを描くときには、できるだけ大きく描くよう教えられました。小さいとディテールまでよく分からないからです。また別の人からは、メモ帳のような小さな紙にゴチョゴチョっとスケッチを描くのもアイデア展開には向いてるよ!と教えてもらいました。ディテールが曖昧で分からないので、そこからアイデアが広がるからです。
どちらが正解というのはないんですが、アイデア出しの段階に限って言えば、曖昧なネタ出しの方が確かに向いていると思うことがあります。アイデア出しの会議で、出てくるものがあまりに具体的だと、それが良いかわるいかの判断にしかならないことが多いのですが、そのアイデアが曖昧だと「こうしたら、グッと良くなるかも♪」「それって他の手段に変えたらどう?」など展開ができる。もちろん、具体的なアイデアからも展開はできますが、それができるには経験や柔軟性が必要です。具体的に示されるとそのものに思考が向いてしまう一方で、「曖昧」はそこで示されたものが言いたいことや表現しきれていないことに思考が向かう。はじめから具体的にすることは時に思考の幅を狭めてしまう傾向があります。
誤字脱字が多い人は確認しない人?
他人のちょっとした言動で、その人を判断することがあります。特にマイナスの印象は強く、メールなどでの誤字脱字が多い人は、きちんと確認をしない人。はじめて会う日に遅刻してきた人は、時間を守らない人。そんなふうに決めつけられてしまい、さらにそのイメージは困ったことになかなか払拭できません。
お店や会社の印象も同様で、商品が不揃いだったら揃っていないお店、失礼な応対をされたら他の人もそういう人、となってしまいます。すべてをパーフェクトにすることはできないので致し方ない部分もありますが、そう思われてしまうと意識することが重要。あくまで経験の中での話ですが、マイナスの印象を第三者に与えたきっかけとなったことのほとんどは、本人が自覚していない場合も多いからです。私自身も過去にマイナスの印象を抱かれていた際、遠回しに聞いたそのきっかけは自分では気付けなかった部分でした。他人のことを言える立場ではありませんが、それ以降、断片的なところで総合的に判断されてしまうということを肝に命じています。それまでにどんなに良い印象を与えていたとしても、ほんの些細なことで真逆の印象に変わることもあるので気をつけたいところです。
表現の幅の広げ方?
「こんなデザインするんだっけ?」少し前に友人からそう言われたんですが、そのデザインはたしかに数ヶ月前の私だったらやらないデザインでした。最近になって、ある仕事で必要になり身に付けた表現方法だったからです。「表現の幅が少し広がったな♪」と少し嬉しくなりました。
私が実践している表現の幅の広げ方は、自分がやらない表現を実際にやってみること。例えば、自分の好みとは違う表現を1つ選んで、それと同じように作ってみる方法です。手を動かす。その表現を忘れてしまっても、手が覚えているのでいつでも引き出せる感じです。本を読むだけではなくて、その本の内容を他人に伝えることで自分の中に落とし込む方法と似ています。よく言われることですが、重要なのはアウトプット。自分のセンスを磨いたり、考え方を身に付けようとして、いろんなものを見聞きすることは重要ですが、それを自分で実践してみないと、いつでも引き出せる自分の引き出しには入れられないと思っています。何事もやってみて、はじめて消化できる。若い頃、がむしゃらにいろんなものを見てきましたが、そこからもう1つ行動を起こしていないものは残念ながらほとんど覚えていないんですよね。
“おもしろい”で買ってない?
デザインのアイデアを考えていると、思いついた変わったモノやおもしろいコトに心を奪われてしまうことがよくあります。しかし、その時に考えているアイデアの目的に“おもしろさ”は必要か?とふと我に返ると、そこまで必要がない場合も度々あります。
例えば、多くの人に買ってもらいたい商品。そこに“おもしろさ”がどこまで必要かと冷静に考えると、使いやすさの方が重要だと気付きます。自分が普段商品を購入するときのことを思い出せば、“おもしろさ”を優先して選んで買っている商品はほとんどありません。変わったモノやおもしろいコトは、作り手や発信する側は楽しいのですが、それと実際に必要なものは別。一方で、“おもしろさ”は、興味喚起や話題性など一部では必要なことでもあります。“おもしろさ”は使いどころを分かって取り入れる。人に興味を持ってもらうことと、購入・行動してもらうことを混ぜこぜにして考えると、そのあたりの線引きが曖昧になってしまうので、今考えているアイデアが何のために必要なのか?を常に念頭に置くようにしています。
条件に合わなくても、もう一歩踏み込む?
私は初めて勤めた会社をすぐに辞めてしまったので、新たに勤め先を探していた当時は、ほぼ未経験でした。中途採用での応募だったので、募集条件を満たせる会社はほとんどなく…。それでも「この条件は満たしていないんですが…」と、もう一歩踏み込んでみて、ようやく就職することができました。
条件が合わなくても、そこですぐに諦めない。そのときは、他に選択肢が無かったので懇願するしかなかったんですが、もし他に選択肢があったら、当時の私は条件が合わなければ引き下がっていたかもしれません。年齢、学歴、実務経験、資格、語学力…。就職に限らず、様々なシーンで条件が提示されますが、それらの条件を全て満たしている必要がない場合もあります。私の場合は、実務経験3年以上と実務レベルでPCソフトを使えることが条件でしたが、応募時はそこまでソフトを使いこなせていませんでした。経験はどうにもなりませんが、そこで「今はこのソフトを使えないんですが、入社日までに覚えます。」と啖呵を切って、どうにか採用にこぎつけた過去があります。提示される条件は、理想の条件であって、絶対条件ではない。そう考えるようになって、すぐに引き下がるのはもったいないと考えるようになりました。
大雑把な頼まれ方を喜ぶ?
「あと諸々よろしく!」「えっ…」駆け出しの頃は、そんなふうに大雑把に物事を頼まれる度に不安になっていました。そんなときに同僚から「信頼されてて羨ましいな~」と言われたことがあります。当時の実際のところは、私が対応しきれないのが分かっていて上司がわざと大雑把に頼んでいただけですが、その同僚が言ってくれたこともまんざら嘘ではありません。
大雑把な依頼は、信頼してもらえている証。断片的に伝えたり、情報が不足している状態で依頼するということは、それを補ったり整理する能力があると思ってくれているということ。自身で調べてくれる、必要な人に聞いて進めてくれる、決めなければいけないことを逆に指示してくれる…などなど、自分が伝えなくても滞らないと思ってもらえているということです。自分が誰かに頼み事をした時を思い返してみても、確かに信頼している人ほど簡単にしか伝えておらず、心配な人には事細かに伝えているような気がします。適当な感じで頼まれていると思うとガッカリしてしまうこともありますが、自分を信頼して大雑把に頼んでいると思えば前向きに対応できます。
異素材の組み合わせ?
これまで組み合わせたことのない素材を組み合わせる。世の中にはそんなおもしろい商品がたくさんあって、目新しい印象を受けますし、素材の可能性の広がりを感じます。でも、そういった“斬新な組み合わせ”という面だけに魅了されてしまうのも考えもの。それは、商品として成立している多くが、異素材を安易に組み合わせているわけではないからです。
私たちがパッと思いつくような素材の組み合わせは、少し角度を変えて考えると、今まで無かった組み合わせではなく、合わないから合わせてこなかった組み合わせかもしれません。例えば、異なる樹種の木材を組み合わせた無垢の家具。木によって伸縮率が異なるので、当然ながら使っているうちに割れたり歪んだりしてきます。技術でカバーできる範囲なら問題ありませんが、異なる素材を合わせるのは基本的には難しいこと。「質感のコントラストが○○♪」と、ついつい見た目の新鮮さや美しさに注目して異素材を組み合わせたくなってしまいますが、安易に組み合わせるのは要注意。身の回りの壊れるのが早い商品をじっくり見てみると、無理に合わない素材同士をくっつけていることが度々あります。
自分の目で見た生きた情報?
いま世の中ではこんなものが流行っている!これからこんな感じがウケる!誰かに向けて発信する仕事をしている人にとって、そういった情報に敏感になるのは大事なことですし、データに基づいて判断するのも重要です。ただ同時に、頼りすぎてしまわないように注意したいところ。
人づてに聞いた情報の中には、当然ながら正しいものと間違っているものがあります。そして正しい情報だったとしても、それが自分の伝えたい相手と必ずしも重なっているとは限りません。そこで必要になるのが、自分の目で見ること。情報を信用しないで、自分の目を信じるという意味ではありません。正しいと思う情報のほんの一部でも自分の目で見て確認するということです。流行っているファッションアイテムがあると知ったら、それを実際に身に付けている人がいるか街に出て探す。これから流行るスイーツなら、自分でも食べに行く。そこで得られるのは、生きた情報。結局、知っていたとおりだったとしても、自分の目で見たかどうかは全く違います。ちなみに先日、連日行列ができているというお店に行ってみたら、あまりお客さんが入っていませんでした。たまたまかもしれませんが、そんなことも時にはあります。
面倒くさがりの強み?
私は根っからの面倒くさがり屋で、面倒なことは極力避けたい性格です。でも、面倒くさがり屋には良い面も♪それは、面倒なことに直面した際、後々もっと面倒になるのを回避しようとすることです。その瞬間面倒でも、すぐに解決できる方法を選びます。
例えば、何かトラブルが起きたら、直接関わっている人や解決できる人にすぐに電話をかける。電話をかけるのは面倒なことですし、自分がトラブルの原因なら怒られます。でもそれをメールで伝えたり、時間を置いたりはしません。後々もっと大ごとになる可能性があるからです。後のものすごい面倒より、今の少しの面倒。物事を進めるのが比較的早いと周りの方々から言っていただけることが多いんですが、それはきっと作業が早いのではなく、すぐに片付けようとするからだと思っています。もちろん、相手が電話に出づらい状況で何度も電話をかけるようなことはしませんし、簡単に解決できることばかりではありません。すぐに対応しない方が良いことも時にはあります。それでも、基本的にはすぐに対応する。メールで伝えるのは楽ですが、相手がいつ見てくれるのか分からず不安なまま待つのはかえって面倒くさいと考えてしまうので、本当に面倒くさがり屋だとあらためて思います。
消化できなくても行動?
先週飲みに行った居酒屋さんで、こんなやりとりがありました。「ゴメン、急ぎで先に生ビール2つちょうだい!」「先に注文入ってるドリンクがあるんですけど、どうして急ぎなんですか?」ドリンク係の子は後でこっぴどく怒られていました。
私は物事をきちんと理解して手を動かしたいタイプです。だから、ドリンク係の子の気持ちは分からなくもありません。でも、状況に応じて理解する必要のないこともたくさんあります。注文された順に出すのは誰もが分かっていること。そこをあえて先にと言われたら、理由がなんであれ先に出せばいいだけの話です。偏見の部分も大いにあるので誤解を招いてしまうかもしれませんが、「体育会系の部活や職場を経験している人は一緒に仕事をしやすいよね」と仲の良い先輩とよく話します。きちんと理解したくても、黙って言われた通りにやることが時に必要だと考えているからです。まず行動する。古い考えだと言われますが、その場で自分が納得して取り組むばかりでは、自分が理解できない時に止まってしまいますし、自分には無い別の考え方に基づいて行動するという経験ができません。
描きやすいより描きたい?
大人がカードで買い物をした際に、崩した英語でサインを書くシーン。スポーツ選手がカメラのレンズに向かってサインを書くシーン。バカでかい紙に大きな筆で文字を書くシーン。不思議とそんなふうに自分も書いてみたい!と思う瞬間があります。
書いてみたいと思ってもらうにはどうしたらよいか?そんなざっくりとしたテーマで昔友達同士で雑談したことがあります。その時に出たアイデアのほとんどは、書きやすいような環境を整えること。気軽に書ける、恥ずかしくない、面倒でない、時間をとらない、タダでできるなど。でも、自分から書きたいと思って行動したときはどんなだったかを振り返ると、決して書きやすい環境ばかりではありませんでした。どちらかと言うと、書きづらい方が多いような気もします。冒頭で挙げたような例は、決して誰もが書ける環境ではありません。でも、そんなふうに書きたいと思う。「書きやすい」ではなく「書きたい」になる方法。重い腰を上げてもらおうと、私たちはその人にとっての負担を極力無くそうと奮闘しますが、負担を無くすことで行動に移ると考えるのは実は間違っているのではないかと思うことがあります。
ボタンを押して私が確認?
直接触れていなくても手をかざして反応したり、画面を指で触ってはいるけど押した感覚がなかったり、技術の発展で世の中がどんどん便利になっているように見えます。自分の最近の生活を振り返ってみても、いわゆるボタンみたいな物をしっかりと押した記憶がありません。
ボタンを押した感覚。そういったことも私は時に必要だと思っています。なんというか「私の意思で確認した」ことが自覚できるかどうかという点。世の中が「相手側が確認できればOK」になりつつあるように見受けられます。例えば、印鑑を押したり、サインを書くことはお互いにとって面倒な作業ですが、やっぱりそこにはきちんと意味がある。サラッと済ませされたら便利かもしれませんが、重要な決断がタッチ1つで決まってしまったら、私だったら不安になります。家や車を買う時に、ピッと何かをかざして購入できるとしても、そこに足りないものがあるような気がします。電子マネーなんかも便利で私自身も活用させてもらってはいますが、硬貨や紙幣を渡す・受け取るの行為が無くなった時、同時に無くなるものがあるかもしれません。