デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

モノを大事にする?

 

f:id:kazuhotel:20190929043121j:plain

 

 モノを大事にする日本の文化は好きですが、大事にする方法が人によって異なってるように感じます。具体的に言うと、「使わない」ことが大事に扱うことだと考える人と、「使う(使い続ける)」ことが大事にすることだと考える人です。私は1人の作り手として、後者であってほしいと日々思っています。

 

例えば、高価なグラスをもらったら、貴重なものだからと使わずにしまっておく。そしてそのまま使われずに何年も眠っていたりする。あくまで私の願望ですが、きっと作った人は使ってほしいはず。もちろん使用する中で、傷がついたり破損したりしますが、それでも使われないままでいるより嬉しいし、それが修理すればまた使えるモノならぜひ修理して使ってほしい。そう思ってしまいます。実際、持つだけで手が震えてしまうようなモノまで自分がちゃんと使っているかというとそんなことはないんですが、できるだけ使うようにしています。他人にとやかく言うことではないのは百も承知で、綺麗事っぽく聞こえるかもしれませんが、「モノを大事する=モノを作った人の想いも大事にする」だと思っています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

カモフラ柄の目的は変化?

 

f:id:kazuhotel:20190929042743j:plain

 

 迷彩柄のファッションは時代を問わず人気があります。でもあの柄、カモフラ柄と言われるぐらいなので、もともとは森などで自身をカモフラージュするために使われていた柄です。現在は、実際にあの柄がカモフラージュ効果のある場所で使われることは少なく、1つのテキスタイルデザインとして定着しているわけです。

 

初めはある目的のために作ったモノやコトが、別の目的のために使われるようになる。私はそういった変化はごく自然なことだと思っているので、自分が利用者側であっても作り手側であっても、変化を受け入れます。先日、私はある空間のデザインをしました。その一画にある目的のためのスペースを作ったのですが、数日経ったら別の目的のためのスペースに変わっていました。その空間を使う人たちが使っていく中で用途を変化させたわけです。これもごく自然なことで、私としてはむしろ望んでいること。でも実際は、決めた通りに使ってほしい、アレンジしないでほしい、勝手に変えないでほしい、と考える人もいます。その考え方も作り手のこだわりの1つなので、そういう人に会うと、自分はこだわりがないのかなぁ…なんて思ったりもします。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

そこまで言うなら試してみたい?

 

f:id:kazuhotel:20190929042619j:plain

 

「住みたくない街No.1」「都道府県魅力度ランキングワースト1」どうしてそんなことをランキングにして発表するのか?と思ってしまいますが、私たちは逆にそこに興味を持ってしまう習性があるのでないかと考えています。相手の感心を集めることができるから、そういったネガティブなランキングを公表する。盛り上げたい気持ちからやっているわけです。

 

そこまでいうほどわるくないんじゃないの?私は実際に行ったけどそんなにわるくなかったけどなぁ…。そのランキングを見たら、何かしらの感情が動きますよね。例えば、自分のことを卑下して「私、そんなにスタイル良くないから…」なんて言う人もいますが、相手は大抵「そんなことないよ」と言います。社交辞令で返しただけだとしても、その瞬間は相手のスタイルについて感心を持ってしまったということ。それと同じだと思います。相手が引いてしまうほど自分たちのことを下げて伝えてしまうと効果はありませんが、「どうして?」と思えるぐらいの下げ方だったらきっと効果てき面♪「私たちは凄いんです!」と伝えるばかりが、相手の感心を集める方法ではないかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

いつかを待つのもわるくない?

 

f:id:kazuhotel:20190929042520j:plain

 

 何シーズンも続いている深夜に放送されていた人気番組が、また次のクールからはじまります。前回の放送が終わったときに「またいつかはじまるはず♪」と期待している人もいたと思うので、楽しみにしている人も多いのではないでしょうか。

 

次にいつはじまるのか分からないことを待つのは、モヤモヤした気持ちになりそうなものですが、私たちは逆にそれを楽しんでいることも意外とある気がします。人気マンガが休載になったら、再開するまで今までのストーリーをもう一度読み直しておこう♪という人もいるし、次の展開をあれこれ予想して再開までの時間を楽しむ人もいる。待たされすぎると冷めてしまうこともあるので、その「いつか」の設定はとても難しいと思いますが、だからといって次にはじまるタイミングを具体的に提示しなくてもよいかもしれません。間髪入れずに見せ続けることが必ずしも良い効果を発揮するとは限らない。間を空けると、相手が離れていってしまう怖さがあったり、発信し続ける力がないと思われてしまう不安もあると思いますが、もし少しでも期待を寄せてくれる人がいるなら、次が未定の期間をつくってみてはいかがでしょう。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

「無駄」で力を発揮する?

 

f:id:kazuhotel:20190926163824j:plain

 

 最近は、精神的な効果という曖昧なチカラにとても興味を持っています。数値や具体的な目に見えることでは量れないチカラ。私は普段、他の人が分かりやすいように具体的にする仕事が多いので、分かりにくいけど実は大きな効果のあるモノやコトは、これから学んでいきたい課題です。

 

陸上の短距離選手。サポートするメーカーが研究や開発をしてシューズをグラム単位で極限まで軽量化しています。でも、その選手が首に金属のネックレスをしていたりします。「そのネックレスを外せばもっといいのに…」と感じる人も多いと思いますが、選手本人が一番良い精神状態で試合にのぞめるのは、そのネックレスがあるからかもしれません。これは数値では量れない効果です。視野を広く保たなければいけないサッカーやラグビーなどのスポーツだったら、目にかかるような長髪よりも短髪にした方が良いと感じる人はきっと多いし、「そのユニフォームよりも動きやすい格好があるんじゃないの?」と思ったりもしますが、それもきっと同じ。客観的に最適な環境を整えたからといって、それが本人にとって一番良い環境かとは限りません。自分をベストに持っていける人は、それぞれ何かしらの曖昧なチカラに頼っているような気がします。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

予定を変えても上手くいく?

 

f:id:kazuhotel:20190926163729j:plain

 

 大勢のスタッフで実施するプロジェクトやイベント。急遽予定が変わったりすると大変なことになりそうですが、あたふたしないこともあります。先日のあるイベンドでは、会場の配置を当日の直前で大きく変更したのですが、それでも滞りなく実施することができました。変更内容と“その理由”をきちんと伝えたら、すぐに理解してもらえたからです。

 

対応が困難になるケースと、すぐに切り替えて順応できるケース。その違いは、自分の役割のことだけを考えているか、全体のことが頭に入っているかだと思っています。前述のイベントでは、配置変更によって自分の役割を変えなければいけないスタッフの皆さんが全体的に動きを把握していました。そのため、「じゃあ私とあなたは役割をこう分担しましょう!」など、現場のスタッフ同士ですぐに整理して対応できたわけです。他の人の役割が頭に入っていなかったらできないこと。イベントに限らず、普段のチームで進めるような仕事も全く同じで、他の人の役割や全体の動きを頭に入れて仕事を進めるのはとても重要で、もし何かトラブルがあっても、それができていれば大抵の困難は乗り越えられると思っています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

言わないから伝わる情報?

 

f:id:kazuhotel:20190926163641j:plain

 

 映像や画像、特に映像は観ているだけでとてつもない情報量が入ってきます。そこに文字情報を加えた方が分かりやすいと考えがちで、確かにその側面はあるのですが、一方で受け手に与える情報を制限してしまうことも多々あります。

 

テレビ番組のテロップなどが例として分かりやすいのですが、美味しそうな料理の画像があって、そこに「美しい盛り付け」と出てきたら、私たちは美しい盛り付けとして捉えるか、あるいは「いやそんなに美しいかな?」と反論したりする。いずれにしても、盛り付けに注目してしまうわけです。画像だけだったら、もっと他のことに目を向けるかもしれないし、ちがったポイントを魅力的に感じるかもしれません。文字で補足したら伝わらなくなってしまうこともあります。映画も同じで、邦画は映像に没頭できますが、洋画は字幕の文字の影響が強いので役者さんの演技から感じる要素が薄れてしまう印象です。「映像や画像に文字を加えるのは、その映像や画像からは分からない情報にしなさい。」私はそうやって教えてもらってきたので、魅力の詰まった映像や画像を窮屈にしてしまう文字情報は極力入れないようにしています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

すぐに使える対応をする?

 

f:id:kazuhotel:20190926163549j:plain

 

 腕時計の電池交換。電池を新しいものに交換するのが仕事だけど、ついでに時刻も合わせてくれます。自分で時刻を確認して合わせる必要がないので、すぐに使うことができる。何てことないことっぽいけど、これができる人は意外と少ない印象があります。

 

ビニール傘を購入する際に「今使いますか?」と確認してタグや包装を外してくれる人。データをメールで確認してもらう際、相手がスマホでも確認可能なように、あえて圧縮データにせずに送る人。荷物を車に積み込む際に、使う順番で取り出せるように積み込み方を工夫する人。いずれも、相手がすぐにできることを意識した対応です。そういった対応をしてもらえるたびに、決められたことをやるだけが仕事ではないなと思います。ただ、このさじ加減は難しいところで、女性がペットボトルのフタを開けやすいようにと緩めておくなどは行き過ぎた行動で、逆に不快にさせてしまうこともあります。自分がされて嬉しいからという判断だけでなく、まわりのいろんな人を観察して、その人に合った対応ができるようになるとGOOD。私もまだまだ配慮が足りないので、できる人たちを見習っていきたいです。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

質問がなくても質問できる人?

 

f:id:kazuhotel:20190924120900j:plain

 

 あるプレゼンの場。プレゼンターの分かりやすい説明もあって、その場にいた人は特にその内容についての疑問が湧かないような様子でした。しかし、審査員を担当していたあるデザイナーさんは次々と質問をしていて、そこまで質問が考えられるんだなぁと感心してしまったのをよく覚えています。

 

その時の質問の内容は、普通に聞いていると内容に関する疑問を投げかけているようなんですが、その意図をしっかり理解しようとすると、それがプレゼンのアイデアが発展するかもしれない問いかけであることに気づきました。「この素材を〇〇にした理由は何ですか?」は、「この素材を□□にしてもよいなら商品化の可能性が出てくるんだけどなぁ…」。自分もそのアイデアをカタチにするつもりで参加しているから、そんな質問ができる。実際に自分の経験を照らし合わせても、自分も加わってそのプロジェクトを進めたい!と思ったらいくらでも質問できたし、あんまり気が乗らない話のときは質問ができなかったように思います。よく仕事などで言われることですが、何でも自分のこととして考えられる人は、どんなときでも質問が思いつかないなんてことはないのかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

目に見えることしか知らない?

 

f:id:kazuhotel:20190924120800j:plain

 

 学生の頃、居酒屋のバイトで調理補助を長くやっていたなんとなくの流れで、特に目的もないまま調理師免許を取りました。なので、すごく上手なわけではありませんが、料理はどちらかといえば得意です。でも、私は他人の前で料理をすることはないので、誰も私が料理が得意だとは知りません。

 

以前、あるデザイナーさんに「本当にやりたい表現があるのなら、それを表に出していないと、いつまで経ってもあなたのソレを知る人は現れないよ」と言われたのをよく覚えています。自分が納得してやっていることでも不本意であっても、いつも同じようなデザインばかりだったら、そういったデザインしかできない人だと思われてしまうわけです。だから、自分はこんなこともできるんです!と知ってもらいたかったら、言葉で発するだけで終わらせず、実際に表現して表に出さないといけない。本当はもっといろんなことができることを知ってもらうには、それなりの行動が必要だということだと思います。履歴書の特技に書いてあることなんて、見た人はその時一瞬覚えてすぐに忘れてしまいますが、目の前で特技を披露されたら、それは結構長い間覚えてもらえます。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

同じ系統のもっといいのがあった?

 

f:id:kazuhotel:20190918234812j:plain

 

 アイデアもデザインも申し分ない。でも、それを選ばない。そういったことがよくあります。理由は簡単、他にもっと良いものがあったらからです。自分たちが買い物をするときなんかを思い返してみると、きっとしっくりくるはずです。選ばなかったものは、一番ではなかったというだけ。

 

あるコンペで私は2作品を応募しました。1つは自分の中で完璧に仕上がった案、もう1つはアイデアは自信があるけど詰めが少し甘い案です。結果、後者が選考に残りました。のちに選考に残った人たちの再プレゼンの場があったんですが、私が自信ありの案が通らなかった理由が判明。似たアイデアのもっと素晴らしいデザインがそこにあったからです。同じ系統なら、当然そちらを選ぶ。審査員の方も「この感じのアイデアは素晴らしい応募作品がたくさんあって選考に苦労しました」と言っていましたが、そのアイデア系統は激戦だっただけ。自分で言うのもなんですが、前者の案も考え方は間違っていなかったということです。だから、仕事などでの提案の場で自分の提案が採用されなかったとき、これはダメだったんだと落胆する必要はありません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

気持ちが和らぐ“機能”?

 

f:id:kazuhotel:20190918234707j:plain

 

 見ているだけで癒される。そこにあると気持ちが落ち着く。そういったモノがもたらす感覚的な影響力も立派な機能だと私は思っています。家電製品など具体的な結果をもたらすいわゆる機能とは異なる機能。最近のデザイン傾向を見ていると、そんな情緒的な部分を大事にしているように感じます。

 

先週、ある人のデザインの提案を聞く機会がありました。そのデザインのコンセプトは「見てほっこりできる〇〇」。新しい機能や斬新なアイデアに寄せず、造形美のみでそれを表現していました。本当に見ていてほっこりして、素晴らしいデザインだなと感心して聞いていたんですが、同時にその情緒の部分を目指して徹底するという考え方もあるのだと再認識することができました。私はどちらかと言えば、分かりやく効果をもたらすアイデアを考えがちで、そういったベクトルの考え方が苦手です。表現力が乏しいのもありますが、それでは納得しない人がいると考えてしまうからでもあります。自身をあらためたいなと思いつつ、不便を感じることのほとんどない今、本当の意味での豊かさを模索している人が増えているんだなと感じました。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

こちらが出ないアイデアをください?

 

f:id:kazuhotel:20190918234613j:plain

 

 企業が外部のデザイナーにデザインを求めることは度々あります。そこで依頼されたデザイナーがどんな提案をしているかはそれぞれだと思いますが、たぶん共通しているのは、その企業の中では出ないアイデア。外にデザインを求める意味や目的を理解して対応しているように思います。

 

企業の中には商品開発の部署があります。業界の動向や流行、専門知識に精通した社員が、幾度となく開発会議を行ってきているわけです。きっととてつもない数のデザイン案を出してきている。自分がその企業の立場で外部のデザイナーに依頼するとしたら、どんなデザインを求めるでしょうか。一朝一夕で考えらえるようなアイデアは求めていないし、奇抜なデザインが欲しいわけでもありません。社内でボツになったようなデザインを提案されても困るわけです。技術的なことを携えて提案されても、中途半端な知識で考えられることは限られている。自分たちが出せないデザインを求めているということだと思っています。難しいことではありますが、その企業にはない視点や自身の経験をもとに「出せないデザインとは何か?」を考えてみてはいかがでしょう。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

捨てたはずの要素が入ってる?

 

f:id:kazuhotel:20190918234457j:plain

 

 提案などで「今回は〇〇という従来の考え方を捨てて、新しい…」と主張しているのに、その提案には従来の考え方が踏襲されているケースがよくあります。なかなか気づきにくかったりするんですが、経験が豊富な人はすぐにそこに疑問を抱いてしまうわけです。「えっ、捨てたんじゃなかったの?」

 

あまり分かりやすい例えが浮かびませんが、例えば椅子。「背もたれに寄りかかるという従来の考え方を捨てて…」としているのに、後ろではない方向にもたれかかるアイデアや、背もたれに代わる機能を持たせた提案をするようなことです。新しい提案をしているようで、実はそれは既存のアレンジ案。また、「この椅子は背もたれがなくても座りやすいように…」と、背もたれのある椅子を意識した説明をするのも同じ。従来と比較しても遜色ないと言いたくなるのはよく分かりますが、その前提を無くしたのならそこをフォローする必要はありません。新しいことを考えたい。固定概念に囚われたくない。そう思えば思うほど、実はそこから離れられなくなってしまう傾向が…。新しいことを考える人は、本当に捨てたことを捨てて考えている印象があります。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain