デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

詰め切れていないポイント?

 

f:id:kazuhotel:20200222170329j:plain

 

 私は度々公募のデザインコンペに参加するので、審査の際にどんなことを聞かれるのか?という質問をたまにされます。よくある質問を答えても、そういったことは誰でも想像できると思ったので、私は「詰めきれていないポイントを突っ込まれますね」と伝えました。

 

少ない経験ではありますが、対面審査で実際に質問されたことの多くは、その作品で詰めきれていないポイント。「〇〇についてはどう考えていますか?」「それが〇〇である必要性は?」のような感じで、自分が詰めて詰めて考え抜いたはずの隙間を縫って、考えられていないポイントを突かれるわけです。審査員になるような人たちは、その粗がすぐに分かるので、質問に対してどうアドリブで返せるかも同時に見られているんですよね。だから、質問を想定するのも大事だとは思いますが、それよりも大事なのは、その作品を限りなく詰めていくこと。審査員が質問に困ったら、それはよく考え抜かれていると受け取ってもいいぐらいだと思います。用意していった質問回答なんてまず役に立たないので、その不安を払拭させたいとしたら、あらゆる面から作品を詰めてみることをオススメしています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

後押しするデザイン?

 

f:id:kazuhotel:20200222170236j:plain

 

 少し前に参加した企業コンペ。結果的に受注を獲得できて、デザインで関わらせてもらった私は喜んでいたんですが、同じチームの1人は少し不満そうでした。プレゼンしたデザインから大きく変えてほしいと先方から要望が出てからです。私としてはそうなることは想定していたので、特に不満はありませんでした。

 

なぜ想定していたかと言うと、提案内容を分かりやすく伝えるためのデザインをしたからです。ユーザビリティや目的を説明するためのデザイン。もちろんデザイン自体が目に止まらなければ意味がありませんが、それを達成しつつも、提案内容に納得してもらう点を一番に考えました。プレゼンに参加していないのであくまで想像ですが、「こういう考えのもとにやってくれるならお願いしよう!」となったのだと思います。なので、そのデザインに対して後から注文が入るのは想定の範囲。まず、考えが伝わったので、次にデザインを詰めていけばよいと考えていました。過程のデザインでは、いろんな役割があります。何かを後押しするためのデザイン。主旨を伝えるためのデザイン。そこで求められるデザインが、最終的な答えに必ずしも近いとは限らないと思っています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

大切にしていることを雑に扱わない?

 

f:id:kazuhotel:20200222170144j:plain

 

 あるラジオで、ラッパーの歌をただのダジャレと茶化したり、「こう聞こえる(笑)」とふざけたりしていました。もちろんバラエティーであって、そのラップが好きでリスペクトがあってのイジりではありましたが、ゲストに来ていたアーティストが、「歌詞に心血注いでいる人に対して、歌詞を茶化しちゃダメですよ!」と軽くツッコんでいたのがとても印象的でした。

 

その人が大事にしていることを茶化したり、雑に扱ってはいけない。私はデザインの仕事をしていますが、似た感じで扱われることはこれまで何度もありました。「なんかこうデザインっぽくしてよ!」「デザインした感じになってればいいから!」悪気なく言っていることだと分かっても、私が人生をかけてやってきていることを適当にされてしまうと、どこか悲しい気持ちになってしまいます。カメラマンにとっての写真。カメラマンに対して写真自体は大事に扱っていたとしても、光の加減や撮り方など細かなポイントを「適当で!」なんて雑に扱ってしまうこともあります。一緒に仕事をする人同士であれば、その人が大事にしていることをきちんと知って、こちらも大事に扱うことが必要だと思っています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

直接受け取る?

 

f:id:kazuhotel:20200222170031j:plain

 

 先日、六本木で開催されているデザインの過程が展示された「マル秘展」に行きました。著名デザイナーさんたちのレベルに愕然とするのではないかと思っていましたが、自身がデザインをする過程と近かったり、似た詰め方をしていて少しホッとしてたりします。もちろん、考察の深さや多くの実験を経てデザインを着地させているあたりは、比べ物にならないぐらいはるか上にありました。

 

その展示会場で気になったことが1つ。たまたまかもしれませんが、結構な人が、展示を自分の目で見る前に写真を撮っていたことです。撮影OKの展示もあったので、参考として残しておきたい気持ちはよく分かりますが、メモ書きやスケッチなど、そのモノが持っている力や発しているメッセージ、匂いや空気を直に受け取れるせっかくの機会なのに、画面越しに見るだけではもったいないなと…。また、各々のデザイナーさんたちが展示に選んだものにも個性があって、一連の流れや俯瞰で見ることにも意味があったように感じたのですが、きっとそれは接写しているだけでは感じ取れないこと。あくまで個人的な意見ですが、こういった展示は、写真に残して満足してしまうよりも、直に見て感じとったり、目に焼き付けておくことが大事だと思っています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

全体に貢献できる人?

 

f:id:kazuhotel:20200219073327j:plain

 

 テレビのバラエティー番組でキャスティングされるタレントさんに求められることの1つに、「番組を盛り上げられるかどうか」があるそうです。楽しそうに振る舞う。みんなと一緒に笑う。画面に映っている演者が、みな同じように楽しんで画づくりに貢献することが重要。自身がオンエアに乗ることや、センスを発揮したり、爪痕を残すことは3番目4番目。それが分かっていないタレントさんは、次から呼ばれません。

 

チームプレーができる人。よっぽど何か秀でた能力がある人を除けば、求められるのは全体に貢献できる人だということです。これは会社や部署、1つの仕事に関わるチームも同じだと思っています。自分がそのチームに貢献できるかどうか。だから、その場で自分の得意なことを無理やり盛り込もうとはしないし、自分のペースにしようとも思いません。全体が活きることを優先します。私はデザイナーとして働いていますが、そのチームで今デザインが必要とされていなければ、デザイン以外のことをやるのに違和感なんて抱きません。「自分は〇〇だから…」と、自分の力が発揮できないチームからは外れたいと思ってしまうことがあったら、求められているのは全体への貢献だと考えてみてはいかがでしょう。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

今の話を書面でください?

 

f:id:kazuhotel:20200219073230j:plain

 

 先日、ある備品を発注した際、発注指示に不備があると電話がかかってきました。仮に壁に掛けるタペストリーとしますが、不備の内容は寸法の指示が無いという内容。それだけ聞くと、確かに不備のように思われるかもしれませんが、注文時にB1サイズを選んでいたんですよね。不備の内容は、「その寸法を記入した指示書を送ってほしい」でした。う~ん…

 

もちろん私の見落としですし、その会社の中での決まりごとなので、文句をつけているわけではありません。ただ、相手も分かっているサイズを、あらためて書面におこして送るというのが、自分でやっていて「これ、何なんだろう…」と思ってしまいました。会社員時代も、「書面で…」という話が出ることがありましたが、電話口で話して伝わっているのにその後その内容をメールしたり、今目の前で許可をとったのにハンコをついてくれと言われたり、悶々とすることが多かったんですよね。責任所在を明確にしたり、間違いやトラブルを無くすための対応として、決して間違ったやり方ではないとは思いますが、たまにそんなことに直面すると、とても窮屈に感じてしまいます。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

相手が良いと思うものをつくる?

 

f:id:kazuhotel:20200219073118j:plain

 

 相手が良いと思うものをつくるべき。誤解のないように補足すると、これは相手の言うままにつくるという意味ではありません。デザインする側の考えはきちんとあるべきで、ただそれが相手が良いものになっていないとあまり意味がないということ。こちらの満足やプライドを優先してつくっても、まず上手く機能しないし、何より仕事として成立していないからです。

 

中には、求められることに応えるのにマンネリを感じたりして、自分でつくりたいものをつくる人もいます。それについて私は、半分賛成で半分反対。前向きで行動力のあるところは素晴らしいと思いますが、第三者の評価なしに作ったものにはどこか力が足りません。商品なら売れないし、作品なら見てもらえないし、広がっていかない。デザインしたものをつくってもらう会社がNOと言ったらそれは売れないし、YESと言ってくれたら売れる可能性があるということ。異なる視点が混ぜて成立させていくから、きちんと力を持ったものになると考えています。私も何かをつくりたい!と思うことはしょっちゅうですが、そんな考えがあるので自分の判断だけでつくることは避けてきました。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

立ち位置を知る勇気?

 

f:id:kazuhotel:20200219073026j:plain

 

 自分の立ち位置を知ることで、今やるべきこと、次に向けてやるべきことが見えてくると思っています。何となくこの辺にいるだろうと感覚で知るのではなく、実際に比べられてしまう場、自分の力が丸裸になってしまう場に行って知る。

 

私は、あまたいる日本のデザイナーの中で、中の下ぐらいの能力だと理解しています。あくまで私の中の指標で、分野も違えば身につけるべき能力も異なるので、曖昧ではありますが、いろんな世界に入ってみてそれを感じ取りました。若い頃は、自分は結構上の方にいるんじゃないか♪と勘違いしていたので、本当の立ち位置を知ろうともしませんでした。だから、やるべきことも明確に見えなかったように思います。きっとどこかで知るのが怖かったのでしょう。でも、やっぱり私は知ろうと動いて良かったと思っています。私もそうでしたが、自身を過大評価していたり、「まだ私の力に周りが気付いていないだけ」なんて考えてしまっている人は、ぜひ同じことをやっているコミニュティに飛び込んでみてください。自分が今どのあたりに居て、何が足りないのかが分かるはずです。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

不自由しなくなったら勉強終了?

 

f:id:kazuhotel:20200219072929j:plain

 

「行動を起こす人は全体の○%!」と、何かを思い立ってから行動に移すまでの話を度々聞きますが、私はそれと同じくらい「何の不自由もなく出来るようになってからも勉強を続ける人は全体の○%!」だと思っています。それぞれ20%だったら、はじめに思い立った人の4%しか勉強し続けないということ。あくまで個人的なイメージです。

 

重い腰を上げて学び出すまでのハードルが高いと言われて、それはその通りだと思うんですが、最近は前述のように勉強しない人(しなくなった人)が目につくようになりました。勉強してきて、経験を重ねて、自分が作りたいものを作りたいように作れる。完璧ではなくても、不自由することなく出来るようになる。そうなると、それまでのように勉強する必要がなくなってしまうんです。実際は、勉強が不要になることなんてことはないのですが、現状で足りてしまうので自然と離れていく。そこで学び続けるか満足してしまうかは、極めて大事な分岐点。不自由がないのは新しいことにチャレンジしていないからと考えて、できないことにチャレンジして今までと同じ、それ以上に勉強しましょう!…と自分に言い聞かせています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

似ているものは並べない?

 

f:id:kazuhotel:20200219070059j:plain

 

 自分たちや同じ業界の人から見れば1つ1つ全く違うものでも、外から見れば、どれも同じとは言わないまでも、似たり寄ったりに見えてしまうことがあります。似たような(似たように見えてしまう)ものが並んでいると、違いを探すのに疲れてしまうし、飽きてしまうし、選ぶことができません。

 

お店で微妙な違いがある商品をたくさん揃えているのは専門店だけで、一般的なお店には、誰が見ても違うものが並べられています。身近なところで言うと、ウーロン茶ならメーカー品とプライベートブランド品の2種類ぐらい。いろんなメーカーのウーロン茶は揃えていません。ただ、ペットボトル飲料は自分の好みのブランドがあったり、メーカーから頼まれて店側が置くなど、様々な理由から似ているものが複数並ぶこともあるのでちょっと例外。一番分かりやすいのは自動販売機でしょうか。重複するものは基本的に並んでいないはずです。もし、自分たちのことをよく知らない人が自分たちのもとを訪問してくれたとき、そこに並べるべきなのは、それぞれが似ていないもの。似ているものを並べると、違いを探すのが大変で見ていて疲れてしまいます。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

知っていることを調べない?

 

f:id:kazuhotel:20200213052512j:plain

 

「〇〇にお店を出すなら、どんなお店がいい?」そんな質問があったとします。その〇〇が外国の聞いたことのない街だったら、私たちはその街について調べます。それがイギリスのロンドンだったら、何となくイメージは湧くものの調べます。しかし、その街が東京だったら、私たちは途端に調べなくなります。だいたい知っているからです。そして、その街が実家のある場所だったとしたら、きっと調べません。

 

私たちは知っていることについて調べない。上記は、以前勤めていた会社の勉強会で私が出したテーマなんですが、外国の街に設定すると調べるのに、身近な街で出題すると見事に調べないんですよね。自分が知っているその街の情報なんて、絶対に偏った情報だし、そもそも知らないことがたくさんあるはずです。でも、“知っている”ことが原因で、今持っている情報を疑ったり、足りてないことを自覚できないといったことになってしまいます。自分が知っているのは断片的で偏った情報。どんなことに対してもその意識を持っているだけで、正確な情報を調べる良い癖がつくようになります。最近調べ物をしていないなぁと感じたら、時々これを思い出してみてください!

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

パスを出せばそこにいる?

 

f:id:kazuhotel:20200213052415j:plain

 

 月1回参加しているフットサル。そこに上手な高校生がいて、その子と一緒になると描いた通りに展開できるので、いつもワクワクしています。私がパスを出すときは、普段受ける人をちゃんと確認してから出しますが、その子にだけは見ないで出しちゃうんです。確認しなくてもそこに居て受け取ってくれるのが分かっているからです。

 

確認してパスを出すには、時間もかかるし労力もかかる。これって、仕事にも当てはまるなと思いました。上司が部下に何か用事を振るとき、部下の抱えている仕事やスケジュールなどの状況を確認してから頼むのは大変です。同じように上司も仕事を抱えているわけですから、できることなら細かな確認をせずに「これお願い!」と言いたいはず。「確認するのが上司の役割でしょ!」と言われそうですが、それはそうではあるものの、やっぱり少しでも楽に振りたい。部下の仕事は、上司の仕事を減らすことだと考えれば、確認作業なく仕事を投げてもらえるようになるのも部下の役割です。一部の会社しか見てきていませんが、たくさんパスが回ってくる人は、「今大丈夫?」といった確認を必要としない人が多いような気がします。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

自分から取りに行く情報?

 

f:id:kazuhotel:20200213052151j:plain

 

 日々、膨大な情報が流れてくる環境に疲れやストレスを感じる人がたくさんいるようですが、私個人でいうとあまりそう感じていません。単に鈍感なだけかもしれませんが、流れてくる中から取捨選択をしているというよりも、自ら欲しいものを取りに行っている感覚だからでしょうか。

 

例えば、昨年から私は外に出る機会を増やしました。舞台や伝統芸能、ショーやライブを観に行ったり、行ったことのない場所に遊びに行ったり、やったことのないことをやってみたり…。当然からだは疲れはしますが、自分で企画して取りにいった情報なので、そこに精神的な疲れやストレスはありませんでした。一方で、何かの用事で都心の繁華街に行くと、目的以外の情報が大量に流れ込んでくるので、若干ストレスを感じます。流れてくる情報は疲れる。取りに行く情報は疲れない。情報社会に疲れてくると、取りに行く気力が無くなってしまうそうなので、もし「このままだとまずいな…」と感じたら、。そうなる前に自分から取りに行くスタイルに変えてみてはいかがでしょうか。受け身で居続ける状態を、ほんの少し能動的にするだけで、同じ情報の捉え方も変わってくるような気がします。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain

応援してもらえるのは35歳まで?

 

f:id:kazuhotel:20200213052053j:plain

 

 私はちょくちょく公募のデザインコンペに参加しています。仕事の合間やぽっかり時間が空いたときは、何かを探してチャレンジしてみるんですが、間もなく40歳になる私が参加できるコンペは、年々限られてきました。デザインコンペは若いデザイナーや学生を応援するためにあるので、ある年齢を過ぎた時点で応援対象から外れるわけです。

 

自身の経験からお話しすると、あくまで体感ですが、35歳前後が応援してもらえるデッドラインだったように思います。仕事で言えば、20代前半は伸びしろを期待して応援してもらえて、20代後半は個人の成果を期待して応援してもらえます。30代前半は戦力としてはもちろん、リーダーとしてチームの成果を期待されます。…で、30代後半は何かというと、若い世代の育成など、会社やチームを育てる立場になります。私は会社員ではないので、そうなってはいませんが、プレイヤーから離れ、ディレクターや管理職になる人も多い印象です。応援してもらえるときにできること。応援されづらくなってからやるべきこと。もちろん年齢がすべてではありませんが、その時にできることに全力で向えば、きっと応援してくれる人が増えていくはずです。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain