デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

いつ無くなるか分からない?

 

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 私は現在、フリーランスとして仕事をしてます。だからなのかは分かりませんが、1つ1つの仕事がいつ切れてもおかしくないと常に思って仕事をしていますし、成果が出ていないことに対して厳しく追及されることをごく当たり前のこととして認識しています。明日、仕事が全部無くなっても、それは仕方のないこと。

 

社員として企業に属している人の中にも、もちろんシビアに物事を捉えている人はたくさんいるんですが、私が出会った一部の人たちは、「正社員=護られている存在」だと極端に捉えているように感じました。例えば、業績が悪化した場合に、減給やボーナスカットとなったら「それは困る!」と憤慨してしまう…。上から求められる成果を上げられなかったとき、もしくはより大きな成果を上げられるよう厳しく求められたときに、「それなら報酬を上げてほしい!」と声をあげる…。実際にそうなったわけではなく、あくまで例えの話ですが、そんな印象です。公務員や大企業なら、ある程度護られるのかもしれませんが、中小企業の多くは常にシビアな状況の中にいます。だから、様々な局面を乗り切るために、時に厳しいことを突きつけられることもある。それをやりがいと捉えて前を向けるとよいのですが、“護られている”とばかり考えてしまうと、そこで気持ちが折れてしまうかもしれません。

 

 

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魅力を浸透させるのは難しい?

 

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 この前、あるデザイン関係の会社で働いている方から、募集をかけてもほとんど応募がなかったという話を聞きました。その会社は、デザインに携わっている人やデザイナーを志す学生なら聞いたことのある会社。著名なデザイナーも在籍していて、その方個人で十数万人もフォロワーがいるようなところです。一般的な募集に加えて、SNSでの情報発信もしたそうですが、それでも難しかったという話でした。

 

仕事の内容を聞く限り、もし私が20代で独り身だったらぜひ応募したいと思うもの。だから、今そのぐらいの年齢の人だったら、きっと応募するだろうと私も不思議に思ったのですが、現実は厳しいようでした。その理由について、私の勝手な見解では、魅力を伝えきれていないのではないかと考えました。それまでは、広く知らせられていない、対象者に伝えきれていないことが、応募が少ない原因だと考えましたが、この話では情報自体は広く伝わっているのに応募が少ないという結果になっています。つまり、伝わっていないということです。難しいのは百も承知ですが、これから考えていくべきことは、伝える数ではなく伝え方なのだとあらためて認識できました。

 

 

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知らないお店はちょっと不安?

 

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 皆さんは、ちょっと大きな買い物をするとき、どんなお店で購入していますか?すべての人に当てはまるわけではありませんが、きっとそれは自分がある程度知っているお店のはずです。1,000円ぐらいならどんなお店でも商品を気に入れば購入するかもしれませんが、1万円以上の買い物はもちろん、10万円を超えるようなら知らないお店で購入することはほとんどありません。

 

自分の購買行動を客観的に見てみると、どういうときにどんなお店を利用しているかよく分かるのですが、これが商品を提供する側になると途端に分からなくなります。例えば、ソファ。「ソファがほしい!」とお客さんが思った時点で自分たちの商品を知ってもらえれば、購入してもらえる可能性があると普通は考えます。でも、前述のとおり、高額になればなるほど知っているお店で安心して購入したいという心理がはたらくわけですから、それまで知らなかったお店が急に目の前に現れても、そこで買おう!とはなかなかなりません。そのためには、検討するまでにその人にとっての“知っているお店”にしておかなければいけないわけです。これは結構大事なことで、それをきちんと分かって施策をとっているお店は、厳しい状況に直面しても何とか乗り切っているように思います。

 

 

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原稿を読むと入っていかない?

 

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 ここのところ、人前で自分の意見を伝えたりする機会がちょくちょくあって、「あ~、伝えるのが下手くそだな…」といつも落ち込むんですが、そんな中でも「これは伝わった!」と実感できるときもあります。それは、伝えている内容云々ではありません。

 

伝えているときの自分を見てわかったのですが、用意した原稿を見ながら話していると伝わらないんですが、原稿を読まずに話しているときは伝わりやすい。どちらも相手の目を見て自分の言葉では話していて、もろに読んでいる感じも出していないんですが、実感として読んでないときのほうが伝わっている気がします。あるテレビ番組で、カンペをそのまま読んでいる演者さんの話は、共演者や視聴者の耳に入っていかないと言っていましたが、確かにそうかもしれないと今なら共感できるところがあります。きっと、話しているときの注意が話し相手以外(原稿や資料など)に向けられていることを、話を聞いている人は敏感に感じ取るのでしょう。それ以来、多少伝える内容が前後したり内容が変わってしまっても、原稿やメモを見ずに伝えるようにしています。

 

 

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大人が納めたのはホコではなくタテ?

 

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 最近、こわい先生や上司や先輩といった存在を見かけないことが多くなりました。手をあげることなんてまずありませんし、怒鳴りつけているのも見かけません。何かにつけてパワハラと言われてしまったり、怒るとすぐに辞めてしまったりと、怒ることができない世の中になっています。

 

大人たちが怒るのをやめたのが、攻撃するのをやめたと勘違いしている人が多いのですが、むしろやめたのは守ることです。その人のために言わなければいけないことを言わなくなる。ここで考え方や間違いを正しておかないと、これからきっと困る。それをやめたということ。なので結果としてこわい大人がいなくなってシワ寄せがきているのは、若い人たちということになります。昔こわい存在だった大人たちの中には、うさ晴らしに怒っていただけの人もいたかもしれませんし、自身の立場を利用して権力を振りかざしていた人も少なからずいたと思いますが、基本的に怒るという行為は相手のためのこと。自分たちを守るために、こわい存在を拒絶していった結果、守られなくなってしまったというわけです。若者たちはそろそろ守ってくれていたことに気付くべきかもしれません。

 

 

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私に関係のあることだ?

 

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 アーティストの楽曲。それ自体が素晴らしい魅力を持っているのに、どうしてTVドラマやCMとタイアップする必要があるのか?と思う人もいます。もちろんそれは、双方の利益のためにやっていることですが、仮にアーティスト側に立ってみると、その理由の1つが見えてきます。

 

あるAという楽曲があって、普段だったら自分の好みとは違うので全く興味を示さないものだったとします。だから、その曲をダウンロードすることもないし、CD屋さんで手に取ることもありません。でもその曲が、自分が好きで観ているTVドラマの主題歌になっていたら、大きく変わります。自分が好きなTVドラマに使われている楽曲に変わる。言い換えれば、自分に関係のある楽曲に変わるわけです。すると、今まであまり聴いてこなかったテイストでも受け入れられたり、むしろのめり込んでしまったりします。自分に関係のあることになったから。そのもの自体にたっぷり魅力があると、その魅力を発信すればよいと考えてしまいますが、それではもともと好きな人にしか届きません。好きになってくれるかもしれない人に届けるための行動をとることで、それは変えることができます。

 

 

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やらせてもらえないことがやりたい?

 

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「やったことがないことをやってみる」とテーマを決めて、昨年からいろんな場所に行ってみたり、体験をしてみたりしています。その中の1つに、ガラス吹きがあるんですが、体験自体は楽しめたものの、私がやりたいと思っていたことはやらせてもらえませんでした。

 

やりたかったのは、炉からドロドロのガラスを取るところ。もちろん、危険を伴うので体験の参加者にやらせることはできません。でも、やりたいのはそこ。ここ数年、コンプライアンスなどを気にして、本当に安全で誰も不快に思わないようなものが溢れています。体験で言えば、安全で技術を必要とせず、参加しやすい金額で、時間がかからなくて、誰がやってもキレイに仕上がること。そこには、ちょっと危ないことや失敗する可能性もあることはありません。でも、やりたいのはそこ。もちろん、危険は回避する必要がありますし、どうやってもやらせられないこともありますが、本物に似せたものでなら出来ることもありますし、環境を整えればできることもあります。若者のテレビ離れのように、無難なことばかり発信していると、人がどんどん離れていってしまうかもしれません。

 

 

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全く興味ないけど買う?

 

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 私たちが買い物をするとき。それは、興味を持ったり、それが欲しいと思うから買うと考えるのが普通です。全く興味がないのに買う、欲しくないのに買うことなんてない。でも、私も含めていくらかの人は、買うつもりがなくても買うというアクションをとっています。

 

例えば、バスツアーに組み込まれた買い物タイム。目的以外の立ち寄りなので、基本的にそこでの買い物に対して興味はありません。でも、参加者たちの多くは、そこで買い物をします。「せっかく来たから…」「時間を持て余しちゃうから…」「みんな買ってるから…」「お土産を買うとしたら、ここしかタイミングがない…」など、何かしらの理由で購入します。中には仕方なく買うという人もいるかもしれません。“興味があるから買う”は、一概に正しいとは言えない。一般的に言われていることや参考書に書いてあることは、つい正しいこととして捉えてしまいますが、それについて疑うことも必要です。99人に当てはまることでも、1人は当てはまらないかもしれない。何でもかんでも疑ってかかる必要はありませんが、時には「そうじゃないこともあるかも?」と考えてみるのもアリです。

 

 

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「大至急」は発生しない?

 

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「大至急これを作ってください。1時間後には提出してほしい!」先日、そんなことがありました。その時はたまたま対応できる環境にあったので対応しましたが、基本的に私はそんなお願いは断ります。その仕事が途絶えてもよい覚悟で言わせてもらうと、「大至急」は、「自分は仕事の管理できません」と同意。この先、管理ができない人と一緒にやっていくのは難しいと個人的には思っています。

 

想定できないことやトラブルは多かれ少なかれ発生するので、そこで対応が発生することは理解できます。でもそこで、どうするかが信用を左右する。これまでの経験で、その「大至急」が本当にどうにもならなくなってしまったものなのか、その人が自分を守るためだけのものなのかは、すぐに分かります。だから、例え管理が上手くできていなくても、ただただ一生懸命でそうなってしまった人には気持ちよく応えます。でもそれが、ただ自分を守るためのものだと見えたら、冷たく思われるかもしれませんが、私は応えません。仕事は信頼関係が築けていてはじめて成立する。その信頼関係が途絶えても、一緒に仕事をすることはできるかもしれませんが、良い結果をもたらすことはできません。

 

 

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私のつまらないは、誰かの楽しい?

 

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 私が見て楽しいと感じるモノが、相手にとってはつまらないモノであることがよくあります。仕事の中でも、「これをもっと表に出していったら、関心を持ってもらえるんじゃないですか?」と提案しても、「こんなのつまらないでしょ」となってしまう感じ。内側にいると見慣れてしまって、魅力を感じなくなってしまう。

 

仕事をしていると、会社によっては外部のチカラに頼らず、自分たちだけでやりたいと考える会社に出会うことも少なくありません。考え方は会社それぞれなので、そこに対してとやかく言うつもりはないのですが、もし自分たちが自社に対して盲目になっているなら、外からの目線も入れてみる必要があります。自分たちにとって当たり前になっているモノが、知らない人たちにとっては魅力的であることが多々あるからです。良い点に限らず、自分たちは上手くやれていると思っていることが、外からすれば問題山積みであることも…。新入社員がしばらく入っていなかったり、ずっと同じメンバーで仕事をしていたり、新鮮な目で見ることのできる人が常に誰かしらいないと、どんなに客観的に、冷静に物事を判断できる人でも、見えなくなってしまいます。

 

 

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唐揚げはどのお店も金賞受賞?

 

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 唐揚げ専門店。大好きなので、見かけるとつい立ち寄ってしまうんですが、どこのお店も何かしらの金賞を受賞しているんですよね。見たことも聞いたことのない賞ばかりですが、そんな賞でも獲っていることが最低条件になっていて、何も獲っていないものというだけで、その土俵から降ろされてしまうわけです。

 

私がデザインの公募コンペに参加することに対して、ネガティブな意見が寄せられることもたまにあります。「若者のためのイベントで、おじさんが出てくる場所じゃない」参加に年齢制限を設けるイベントがあるぐらいなので、実際そうで、プロがアマチュアの大会に出ること自体、御法度と考える人も少なくありません。正直、おっしゃる通りと思うところもあるんですが、私も私で必死なところもあり、土俵から降ろされないように、信用してもらえることを常に作り続けないとと思って参加していたりします。唐揚げで言うところの、何かしらの金賞を獲っていないといけない…。それがあった上で、初めて他と平等に見てもらえたりすることもあるので、参加できるものは限られていますが、できる限りチャレンジを続けたいと思っています。

 

 

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観察するのは物ではなく人?

 

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 著名デザイナーや大手代理店の広告物や作品を見て勉強する。役に立つことではありますが、私はその広告や作品を見ている人や前を通り過ぎる人を観察します。観察と言うと怪しい感じになってしまいますが、その広告や作品に対するリアクションを知ることは、私にとってデザインの参考になるんですよね。

 

近くに寄ってまじまじと見る。しばらく目では追っていたけど立ち止まらない。一度通り過ぎたのに戻ってきて見た。そういったちょっとしたことを、なぜそのアクションに至ったのか自分なりに考えることで、その広告や作品のチカラが分かります。デザインの参考書などで、「この表現は、〇〇の効果がある」とあっても、私はどこか消化不良でした。覚えはするものの、実践で活用されない。その理由は、自分の目で確かめていないからだと考え、本当にその効果があるのかを確かめるようになりました。すると、自分の中で腑に落ちているので、その後は実践にその表現効果が度々登場するように…。これは素晴らしい作品!これは効果的!と、文字情報で学ぶことも必要ですが、体に染み込ませるには確かめることも必要だと思っています。

 

 

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何も感じない?

 

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「不安になってきた…」「悩みが増えた…」と、こちらが発信したことに対して相手がネガティブな感情を抱いてしまうことがあります。そんなふうに波風立たないようにと、私たちは気を遣った表現で発信しようと心掛けるんですが、そこを気にしすぎて結果的にネガティブな感情は抱かなくなったとしても、同時に相手が何も感じなくなってしまうことが多々あります。

 

ネガティブな感情を抱かせることを、わるいことだと捉えてしまいがちですが、決してわるいことではありません。どちらかと言えば、相手の感情を揺さぶったわけなので、発信したことにリアクションしてもらえている、自分に関係のあることとして捉えてもらっている、と考えることができます。広告だったら、それは成功とも言えること。もちろん、不安を煽りすぎたり、不安にさせるだけさせておいて解決策を提示しないなどはよくありませんが、その後にきちんとその不安やネガティブな感情を取り除いてあげるなら、むしろ必要なことでもあります。表現に気を遣うことは言うまでもなく大事なことですが、遣いすぎると何も感じずに流れてしまうので少しだけ注意が必要です。

 

 

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答え合わせをする?

 

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 普段の仕事の中で、自分がつくったモノが良いかダメかを判断するのは難しいですよね。そのデザインがとても良い結果をもたらしたとしても、それは企画自体が素晴らしかっただけかもしれないし、デザインが良ければその結果をはるかに上回る結果になったかもしれません。でも、その答え合わせをする術はありません。

 

企業のコンペでも、他社がどんな提案でどんなプレゼンをしたかは分からず、採用提案以外を見る機会もありません。でも、公募のコンペはそれができます。私がたまに参加する理由の1つはそこです。最終選考に残った作品を公開するものもあれば、公開プレゼンを実施するもの、審査員の総評をしっかり掲載するものなど。それらで、どうして自分が選ばれたのか?選ばれなかったのか?を検証できるわけです。求められていることを理解できていたのか?表現手段は適当だったか?、いろんな気になることを答え合わせをする材料がそこにあります。せっかくやってみても、落選したら「残念…」で終わってしまったり、「なんでこんなのが入賞なんだ?」と妬んだりするだけではもったいない。答え合わせができる稀な機会です。

 

 

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