デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

座学の時間?

 

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 先日、SNSで「美術大学の推薦図書」や「プログラミングのおすすめ参考書」といった記事を見かけました。家にいる時間が長くなったことで、普段よりも本を読めるので、いろんな人たちが、自分が役に立った本を紹介していました。確かに前向きに捉えれば、座学をするのにうってつけのタイミングですね。

 

私は20代の頃、闇雲にいろんな本を読み漁っていましたが、なかなか集中して読むタイミングがありませんでした(というか、作らなかっただけですが…)。じっくり集中して本を読むようになったのは、ここ最近。年齢を重ねたこともありますが、電車の中で読んで受け取れる情報と、家で静かに集中して読んで受け取れる情報は意外とちがうもので、何度も読んだ本のはずなのに、「あ~なるほど~」なんて思ったりしています。どちらかというと、いろんなものを観て、触れて、体験して、体を動かして学ぶ方をオススメしていますが、こんなときは、座学に集中してみるのもアリ♪先行きが不安で落ち着かなかったり、物事を前向きに捉えづらかったりしたら、いま新しい知識を身につけておいて、数ヶ月後に生かす計画を立ててみてはいかがでしょうか。

 

 

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シミュレーションしてから実践?

 

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 ある女性タレントさんは、テレビ収録の前に何度もシミュレーションをすると聞きました。「この質問が来たら…」「答える時間が3秒しかなかったら…」「話を振ってもらえなかったら…」と、友達に協力してもらって、できる限りリアルな状況で、自分では思い付かないことも洗い出して、シミュレーションを繰り返す。それでも、上手くいくことはほとんど無いと言っていました。

 

シミュレーションをすると、リスクマネージメントだけではなく、柔軟に対応できるアドリブ力、予期せぬ幸運が起きたときにそれを逃さない瞬発力など、実践で役立つ能力が身につくメリットがあります。私の仕事でも特に重要で、様々な利用者を想定してシミュレーションをします。ただ、誰を相手にするかが予め分かっていれば、その人を想定してできますが、利用者が不特定多数の場合は、何となくのイメージでシミュレーションしてしまいがち。それでは意味がないので、そんなときはペルソナ(個人が特定できるぐらい細かな人物像)を作って、その人に対してシミュレーションを行います。これをやって、わるい方向に転ぶことはまずないので、何としてでも成功させたい!ってときは、ぜひやってみてください。

 

 

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自分と違う意見...なぜ?

 

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「なんでこうしないだろう?」「どうしてそんな方法を選ぶの?」「〇〇な人たちのことを全く考えていない!」...誰かが決めたことが自分の正義や価値観、常識から外れていると、“おかしい”と捉えてしまいます。自分が影響を受けることなら、感情的になって極端にそう捉えてしまうのも理解できます。私も例外ではありません。

 

こんな悠長なことを言っていたら怒られるかもしれませんが、こんなときだからこそ、なぜ自分(の価値観)と違う意見なのか?を冷静に考えてみるのはいかがでしょう。その人の立場だったら、どういう視点で物事を判断しなければならないかを考えることは、デザインをする上でとても大事なポイントだと思っています。経営者と従業員。表面的には互いの立場を理解しているように見えても、最終的に出す結論が異なるように、本当にその立場に立って考えるのは意外と難しいものです。なので、本気で考えてみると、自分が普段出す結論とは違う答えが出てきたりします。どの答えが正解なんてものはありませんが、「自分と異なる結論に至ったのも理解できる」となるだけで、考えの幅や物事の捉え方がものすごく広がります。

 

 

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困ったときに人間性が出る?

 

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 関係が上手くいかなくなったり、どちらか一方が困ったときに、その人の本性が現れるなと思っています。普段はとてもいい人なのに急に変貌したり、力になりたいと言っている人ほど、本当に困ったときに何もしてくれなかったり…。だから、その人が本当に信用できるかどうかは、そういう時に見極められると思っています。

 

私は昨年の台風19号で自宅が水没してしまったのですが、近所同士で助け合ったのはもちろん、その時にサポートしてくれたのは、地元の同級生や数年前に仕事をした方々でした。グチャグチャの道を歩いて、必要な物だけ置いて帰ってくれた人、行くと逆に迷惑が掛かると考えて、食料や清掃用具が足りなくならないように裏側でフォローしてた人、無事を確認しに顔だけ見にきてくれた人…。そんなことがなくてもその人たちは私が大好きな人たちなので全く印象は変わりませんが、印象が変わってしまった方達もいました。「あの仕事、今日対応してほしいんだけど…」「いつ打合せに来れる?」仕事を優先させたい気持ちは分かりますが、普段は人の助けになりたいと口に出している方達だっただけに、寂しい気持ちになったのをハッキリと覚えています。

 

 

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自分で言わないのはズルい?

 

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 自分で伝えるべきことを、他者から伝えさせる。伝える相手によってはその方が良い場合もありますし、立場や関係性によっては自分が伝えない方が良い場合もあるかもしれません。ただ、本来自分で伝えなければいけないことを、他者の口から伝え冴えるのはちょっとズルいと思っています。

 

例えば、若者に強く何かを呼びかけたい。それを自分の口では言わずに、若者の現状や、いかに伝わっていないかを過剰に伝えて世論を煽り、結果的に若者に非難というかたちで浴びせられる。それはズルい。何かあっても、「私はそうは言っていません」で逃げられるようにしているだけだから。自分の素性を明かさずに発言するのも、自分の言葉ではなく誰かが言っているように伝えるのも同じです。発言に責任を持ってほしいとまでは思いませんが、少なくても誰かを非難したり、何か行動を起こさせたいのなら、自分で発言するべき。今の世の中は、政治や報道に限らず、そんなことが蔓延しているようなに思えます。だから、何でも言いたい放題。リアクションを恐れずに自分の口で発言している人や、言いたいけどグッとこらえて辛抱している人は、私は好意を持てます。

 

 

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大人は退屈しない?

 

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 自宅での生活が長くなって退屈している人が多いという声を耳にして、年齢が上になるほどそんな声を上げていないなとふと思いました。いろんな理由があると思いますが、その1つに「自分で遊び方を考えてきた」かどうかが大きく影響しているのではないかと。提供されるものだけで遊んできた人は、提供が途絶えたらやることが無くなり、自分で遊びを作ってきた人は、いくらでも自分で考えて遊ぶので退屈しないという予想です。

 

今と昔でどれだけ環境が変わっているかは明確に分かりませんが、やっぱり最近になればなるほど、いくらでも遊び道具や場所がある恵まれた(?)環境で育ってきたと思うので、急に自宅にこもることになっても、動画とゲームと漫画ぐらいしかやることが残っていないのではないでしょうか。一方で、テレビゲームもまだ登場していなかった世代は、遊びを考えて作っていたので、退屈していないのではないかと思います。あくまで想像なので何の根拠もない話ですが、こういう状況になって分かることが他にも結構あるので、これからまた浮き彫りになってくることについて、自分なりに考えていきたいと思います。

 

 

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狙いが分かると冷める?

 

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 いろんな経験を重ねていくと、伝える内容には含まれていない別の狙いがあって、その狙い通りに他人を動かそうとしているのが分かるようになります。そんな“狙い”が見え隠れすると、私に限らず、急に冷めてしまう人も多いのではないでしょうか。その瞬間、その人の言葉が入ってこなくなる感じ。

 

私は裏表のないストレートな人が好きなので、計算して話すタイプの人が苦手だということもありますが、単純に自分の思い通りに人を動かそうとするその考えが苦手です。私は、仕事の中で広告をデザインすることもあるので、広告を見た人に行動を起こしてもらうという点では同じですが、極端な言い方をすると、「こう伝えれば、こうするでしょ」と「こう伝えたことで、こう思ってほしい」はまるで違います。また、仕事などで相手と交渉をしたり、相手の心理を読みながら言葉を選ぶような場面は大なり小なりありますが、少なくても相手がストレートな言葉がほしいときに上辺の伝え方はしません。こちらが本音が聞きたいのに、本音で伝えてくれない人に会うと、「これは信頼関係を築くのは難しいなぁ」といつも悩んでしまいます。

 

 

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私に向けられたメッセージ?

 

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 つい2~3年前に知り合った私よりも10歳ぐらい若いある分野で活躍する人。熱い想いを持っていて、行動力も半端なく、良い意味での人たらしで、とても好感の持てる人です。その人が、先日SNSで発信した内容をみて、私は(勝手に)自分に向けて発信されたと捉えて、とても刺激を受けました。もちろんそれは、私に向けられたものではありません。

 

仕事などでアンテナを張って意識しているときは、何でも「自分ごと」として捉えられても、普段の生活の中で「自分ごと」と捉えるのは容易ではありません。逆に全て自分に関わっていると意識しすぎても、疲れてヘトヘトになってしまいます。オススメなのは、自分に関係のありそうなことだったら自分に向けられていると捉えてみること。例えば、ニュースを見ていて、自分と同い歳の人が出てきたらつい観てしまうように、何か好きなことや興味のあることについて触れた内容があったら、自分に対して言っていることと捉えてみるわけです。すると、不思議なことに自分の行動が自然と変わっていきます。いつもならやらないことをやっていたりする。自分を変えたいといった声を時折耳にしますが、今まで意識していなかったことを「これは私に向けらたメッセージだ!」と捉えるだけで簡単に変えられるかもしれません。

 

 

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何がしたいか考える?

 

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 大まかな情報を渡されて資料を作ってほしい!と言われる。そのときに、渡された情報を整えてきれいにまとめた資料を作る人と、他にこういう情報を載せたらどうでしょう?ここに関する情報は他にありませんか?と提案する人がいます。前者は資料を作ることが目的になっている人で、後者はその資料を作る目的を理解して行動する人です。

 

「何がしたいのかを考えなさい」と若い頃はよく言われ、頭がわるいながらもそうすることを続けてきたおかげで、私の今があると思っています。私もまだまだ未熟ですが、それができない人は意外と多い印象です。指示通りにはできても、指示以外のことができない…。結果的に、任される仕事が限られてくることになってしまいます。「余計なことをして怒られたくない」といった心理が働く人もいるかもしれませんし、「指示以外のことをやってはいけない」といった立場や環境もあるかもしれません。それでも、考えることをせずに仕事をしていると、気付いたときには必要とされなくなってしまう場合もあります。ほんの少しでも今自分がやっていることの目的を考え、その目的に沿った対応ができているかをチェックしてみてはいかがでしょう。

 

 

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この行動は間違いかもしれない?

 

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 つい先日、いまの時期に必死に戦っているある飲食店のために、貼り紙を作りました。「お持ち帰りができます」「定期的に店内を消毒しています」といった内容の貼り紙。SNSでも公開して、どうにか乗り切ってもらえたらと思い作ったのですが、外出自粛の最中で飲食店に行くことを勧めるように捉えられてしまったりと、少なからず批判的な反応もありました。

 

数年前の私だったら、「やったことは間違いだったのかな…」と思っていたかもしれません。ただ、今回はそう思いませんでした。こんな時だからこそ、自分がやった方がいいと思ったことをやってみる。それが間違っていたとしても、行動すること自体は間違いではない…。自分が動いたところで、何の影響力もないことは自覚しています。でも、私だからできることがあるとも思っています。それは、必要のない外出を控えて自宅で静かに生活することだけではないはず。私はデザインの仕事に携わっているんですが、その仕事に就きたいと思った理由は「何か社会の役に立てる仕事がしたい!」でした。実際に誰の役にも立っていなかったとしても、私の行動を見かけた他の誰かが、また新たな行動を起こしてくれたなら、それだけで意味があったと思います。

 

 

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バランス感覚を身につける?

 

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 きちんと確認をしてから進めなさい!と言われると、何でもかんでも確認しないと進めないようになる。自分で判断したことを間違いだと指摘されると、自分で判断することをやめる。そんなふうに極端に物事を捉えすぎて、思うようにいかなくなることがあります。

 

そういう私も、若い頃は極端に捉えてしまうことで、モヤモヤとしていた時期がありました。「じゃあどうすればいいの?」となってしまったわけです。でもある時から、「そういう場合もあるし、そうでない場合もある」と考えられるようになりました。何がきっかけかは忘れてしまいましたが、たぶん、全くやらなくても上手くいかなくて、その通りに全部やっても上手くいかなかったからではないかと思います。上手くいかない中で、取捨選択の自己判断や受け止め方のバランス感覚を身に付けられた感じです。もう1つ挙げるとすれば、ある程度責任を負う覚悟を持ったのかもしれません。100:0の思考になるのは、どこかに「責任は負えませんので…」というのがあるから。どういった向き合い方が正しいとか言うつもりは全くありませんが、極端に捉えすぎても、きっと上手くいかないような気がします。

 

 

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積み上げをやめて逆算してみる?

 

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 デザインを考える際に、いろんなことを踏まえて少しずつ積み上げていく方法があります。コンセプトは?対象は?手段は?予算は?と、条件に基づいてカタチにしていく。その方法は間違いではありませんが、時に成果を生み出しづらいカタチになってしまうことがあります。

 

それは、積み上げていく途中で、都合の良いように解釈していってしまうことがあるからです。「こうしたら、ああなって、こうなって…、よしっ!」でも、その途中の「こうしたら、ああなって~」が既にズレているかもしれないし、半ばでゴールを描いてしまって、ただそこに向かう作業になっているかもしれません。プロのほとんどの人はそれを回避できますが、少し経験をしたぐらいの時だと、無意識に進めてしまいます。そこで、オススメしたいのが逆算。自身の経験を紐解いてみる作業です。例えば「〇〇な時に△△を使った」だったら、△△は〇〇な時に選ばれる可能性の高いものだと分かります。その△△を調べていくと、〇〇な時に必要とされるためにやっていることが分かる。それをすれば、〇〇な時に選ばれやすいとなります。積み上げていく方法は正しいと思っていますが、想像で積み上げるのと、事実や実績で積み上げるのでは大きく異なる。ちょっとうまくいかないなと思ったら、身近な何かを紐解いてみると、ヒントがあるかもしれません。

 

 

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わるく言うと行動しない?

 

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 禁煙を啓発する広告。よく見かけるのは、「がんになるリスクが〇%上がる」「あなたはこれだけ周りに迷惑をかけている」といった、喫煙がいかに良くないかを伝えるものでした。きっと喫煙者はそれを聞いて、「そんなことは分かっている!」「迷惑なんか掛けていなだろう!」となるのではないでしょうか。

 

一方で、最近見かけたある禁煙啓発のポスターには、「禁煙するとこんなに良い点があるんです!」といったメッセージが入っていました。好きな人と一緒に居られる時間が長くなる、ご飯が美味しくなる、お金が貯まる、などなど。そうしたらどんな良いことがあるかを伝えていました。こういう表現の方がよっぽど効果があるなぁ♪と感心してしまいました。不安や危険性を煽うより、よっぽど「禁煙しようかな…」と思える広告だと思います。わるいところを指摘するのは簡単ですし、表現も強いので、対象に響きそうな感じがします。しかし、行動を起こさせるかどうかと言うと、実際のところ届きはするものの動かない。人を動かすには、そうしたいと思わせる伝え方が必要があると私は考えています。「一緒に居られる時間が長くなる」は、とても好感が持てました。

 

 

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温かみのある工業製品?

 

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 手づくりは温かみがある。工業製品は冷たい。そんな声を聞いて私はとても違和感を抱きました。それは、手づくりを冷たいと感じたり、工業製品を温かいと感じたことが過去にあったからです。

 

実際にあったものではありませんが、極端な例を挙げれば、乱暴に作られたものは手づくりだったとしても、血が通っていない感じがします。反対に、使う人を意識して細かなところまで気を配って丁寧に作られた工業製品は、機械で作っていたとしても血が通っている感じがする。そこに、手づくりか工業製品かはあまり関係ないと私は思っています。何でもかんでも手づくりの方が温かいと言うのはちょっと違う…。当然、人によって感じ方はそれぞれですし、少し不恰好な出来の手づくりは確かに温かみがあります。でも、結果的に私たちが選んでいるものの中で、手づくりはごく一部。もし工業製品に全く温かみがなかったら、きっと私たちは選んでいません。そこに少なからず熱があるから選んでいるはず。「手づくりは温かみがある。工業製品は冷たい。」のように、大枠で区別してしまうと、本当のところが見えなくなってしまうように思います。

 

 

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