デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

オーラを出す?

 

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 何かと「オーラがない」と言われることが多く、ある人からは「中身を知るまでは外見で判断されてしまうから、そんなところで相手を不安にさせるのは勿体無い」とアドバイスをいただきました。そこでどうにかオーラを出すことを模索することに…。芸能人がプライベートでオーラを消すのとは逆に、普段オーラの無い私が必要なときにオーラを出そうというわけです。

 

結局着手したのは、身なりだけでもデザイナーっぽくすること。そんなものがあるかは置いておいて、オーラはそれまでの経験や自信が表に出るものだと思うので、完全に付け焼刃です。それでも、意味があるとアドバイスをくれた人は言います。オシャレじゃない人がオシャレなものをつくるとは想像しづらいし、流行に敏感でない人が流行を捉えたものをつくれるとは思えない、という単純な話です。確かにそうかもしれないと思いながら、重い腰を上げ、最近になって今までは選ばなかったちょっといい服をいくつか購入しました。まさかと思ってましたが、服装を変えてからというもの、話を前のめりに聞いてくれてるような気がします。ただ、セールになっている商品を選んで買っているとはいえ、出費がかさむなぁ…。

 

 

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割りに合わないことをやる?

 

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 私は一度フリーランスになって失敗した過去があります。理由は様々で、スキル不足や経験不足、コミュニケーション能力の低さなどがありますが、どうにか続けられている二度目フリーランスである今と比べて何がちがうのかを考えみたところ、1つだけ思い当たることがありました。それは、割に合わないことをやるようになったこと。

 

以前は、世間の相場を気にしたり、やった分のお金をもらうなど、等価交換ばかりを意識していました。フリーランスになって、急にそうしなければいけないと考えてしまったのかもしれません。結果、まだ信頼関係が築けていない状態で相応の報酬を要求するなど、誰から見てもダメなことばかりしてしまったわけです。会社に勤めていたり、相手に迷惑をかけてしまう場合は、ある程度の勘定が必要ですが、それでもきっちりやり過ぎると、仕事を依頼する基準が「人」ではなく「金額」になってしまう印象。きちんと見積もりを出すのは大事なことですし、安請け合いする必要もありませんが、等価交換ばかり意識しすぎると信頼関係が築けません。こちらの等価は、相手の等価とは限らないので…。

 

 

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過去の事例を見ない?

 

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「すぐに過去の事例を見るのはやめなさい!」学生時代に注意されたことの1つです。簡単に言うと、その事例に囚われ続けるからで、それらに対してどうするか?同じ感じにするのか?変えた方がいいのか?と、本質から反れた話になってしまいがちだからです。

 

確かに事例を見れば、答えを出すまでの時間は短縮できるかもしれません。しかし私の経験上、そうやって出した答えは表面的なアレンジにとどまるだけで、結果に繋がらないことが多いように思います。仮に、競合他社の傾向や過去の方法でどんな効果があったのかを知らなくてはいけなくても、それは進めていく中で行えばよいことで、はなから見る必要はありません。よく、アイデアを出すために事例を見るという意見がありますが、そのやり方でアイデアは出ない。事例を見て、作品が内包しているアイデアの切り口や根っこを探ることができる人はそうしないからです。自分はアイデアが出せないと言っているのと同じ。多くの作品に触れたり、刺激を受けることは大事なことですが、いざ自分が取り組もうとしていることについて、似たものをすぐに調べるのはオススメしません。

 

 

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魅惑のモーニング?

 

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 知っているけど出来ないことって、余計に魅力を感じたりしませんか?会社に勤めていた頃、私は喫茶店のモーニングがとても魅力的でした。8時出社だったのでモーニングの時間に行くことはできず、ただその時間に喫茶店で過ごす贅沢なひととき(想像)は、経験したことのない私にとっていつかやってみたいことの1つになっていました。

 

会社を退職して、すぐに喫茶店のモーニングを体験。想像通りの魅力でとても良かったのですが、いつでも行けるようになると、なぜか足は遠のいていきました。経験できないから魅力的。「サービス業の人は、空いている平日にお出掛けできていいな~」と平日働いている人は言うし、「友達と予定が合わせられていいな~」と土日に働く人は言います。それは、お互いの経験がないから。やったことがないから魅力的なわけです。だから、自分たちの発信していることに魅力を感じてくれる人がいた場合、それがやったことのないことだから魅力的なのか?経験した上で魅力を感じてくれているのか?を確かめてみた方がよいかもしれません。もし未経験の場合、一度経験したら離れてしまう可能性もあります。

 

 

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人の魅力でお客さんが集まる?

 

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 午前中、打合せ場所に予定よりだいぶ早く到着してしまったのでファミレスで朝ごはんを食べていると、早朝にも関わらず続々とお客さんが入ってきました。お目当ては、店員さん。「いつものお願い♪」「体調崩してない?」と声をかける人。「このあいだねぇ~」と最近あった話を楽しそうに伝える人。朝とは思えない活気で溢れていました。

 

どんなに品質が高くてサービスが良くても、それが大企業であってもチェーン店であっても、人の魅力がなければお客さんは集まらない。私が出会ったファミレスの近くには、もっと安く朝食をとれるお店やもっとゆったりとくつろげる喫茶店がありました。それでも彼らはそのファミレスを選んだわけです。もちろん、メニューの魅力や利用のしやすさもあると思いますが、それだけでなないはず。私たちは人を集めようとするとき、内容やメリットばかりを考えます。でも、自分がよく行く場所を思い返すと、そこはやっぱり人の魅力があるんですよね。直接的なコミュニケーションをとっていなくても、そこに居る人が好きだったり、どこか安心したり。やっぱり人は人の魅力に惹かれて行動するのかもしれません。

 

 

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スマートにキメようとしない?

 

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 自分が納得できていないモノがとても好評だったり、ズムーズに進まなくて気持ちよくやり切れなかったコトが上手くいったりします。なかなか思い通りにいかないことは多いですし、自分がバッチリだと思ってもそれが評価されるわけでもありません。

 

私は若い頃、スマートにキメるのがプロだと勘違いをしていました。何がスマートかはさておき、予定通りにサッと進めてバシッと結果を出すみたいなことです。雑誌やテレビで観るプロは、短い時間でたくさんの仕事をしていて、どれもバッチリのイメージだったのでしょう。それらが華やかな部分だけを切り取っていて、裏側でもがいていることなんて1ミリも知らずに…。実際、私が目にしてきたプロたちは、とても地道に泥臭く仕事に向かい合っています。自分の理想通りの過程でなくても、結果が出れば成功だし、思い通りでも結果が出なければ失敗。だから、結果が出るためにプラスになりそうなことは何でもやります。少なくても、結果が出たことに対して不満に思うようなことは一切ありませんし、スマートにキメようとして上手くいくこともまずありません。

 

 

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置くスペースがあるから置く?

 

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 車の後部座席の上にズラリと並んだぬいぐるみ。窓のふちに並んだ雑貨。室外機の上に置かれた植木鉢。そこが置く場所として適しているかどうかはともかく、置けるスペースがあるから私たちは物を置いてしまうそうです。言い換えれば、置けるスペースが無ければ置かない…。

 

その習性を利用して、公共の場で座って欲しくない場所を物理的に座れないようにしたり、触って欲しくない所を触れないようにするといった対応をしているケースがありますが、本当にそれが適切な対応が疑問に感じることもあります。それらの対応は、いわば強制。確かに、決まりを守ってくれない場合に強制的に守ってもらう方法をとるのは、致し方ないところもあります。ただ、座れないようにギザギザの形状になっていたりするのは、きちんとマナーを守っている人からすれば決して気持ちのよいものではありません。座ってもよい場所を近くに設ける、そこに腰掛けていたら恥をかいてしまうような仕掛けをつくる、など他にも考えられる対応方法があっても、きっと改善できないから強制的な方法に至ったのでしょうね。座れるから座る。座れないから座らない。…。

 

 

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差別化を図らない?

 

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 他と比べて選ぶ。そう言われると、みんながみんな比較して選んでいるように聞こえますが、実際はそんなケースばかりではありません。何かの雑誌で「特に女性は、対峙した時の感覚(直感)で選ぶ傾向がある」とありましたが、自分が比較しているからと言って、他の人も比較しているとは限りません。

 

例えば、ディズニーランドに行くかどうかを決めるとき、USJとどちらが良いかで選んでいない人の方が多いのではないでしょうか。きっと、他のアミューズメント施設と何が違うのかでも選んでいません。そこに行きたいかどうか、魅力があるかどうかだけで選んでいるわけです。自分たちで何かを発信するようなとき、特にそこに注目してもらいたいようなときには、私たちはつい他との差別化を考えてしまいます。そこばかり考えて、半ば無理矢理に他との違いを作っていることも少なくありません。それはそれで重要なことに変わりはありませんが、他と違うから選ぶかと言ったら、それは別の問題。純粋に自分たちの魅力をわかりやすく発信する方が、選ばれる場合もありますし、差別化にとらわれすぎると、本来持っている魅力が伝わらないことも多々あります。

 

 

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メッセージを伝えるならイラスト?

 

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 有名人を起用した広告を見たとき、「あっあの人だ♪」と注目するものの、肝心の企業が伝えたいことにはなかなか注目しません。一方で、ここ数年増えているアニメタッチで描いたイラストの人を使った広告は、内容が入ってきやすい印象。あくまで個人の感想です。

 

実際に存在する人には、良い意味でもわるい意味でも感心を持ってしまいます。だから有名人を見ても、その後に広告の内容に気持ちが向かわず、その人の話題に移ってしまう。「あぁこの顔は…」「そういえばこの人…」「昨日のあのテレビ観た?」など。それがイラストの人になると、一瞬人に注目するものの、その人自体に感心をもつことはないので、広告の内容に視線が映りやすい。マンガ文化が発展しているから広告に多く使われるようになったとばかり思っていましたが、そういった広告本来の目的としても意味のあるものなのだとあらためて思っています。「人の写真を使って感心を集めよう!」と、私もつい気軽に言ってしまうことがありますが、それで感心は集められても、本当に伝えたい内容までは感心を持ってもらえないかもしれません。

 

 

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新たな表現を模索する?

 

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 以前、展示会をサポートさせていただいた方と喫茶店で小一時間雑談をしていました。「次の展示会までには、これまでとちがうものをつくりたいと思ってるんですよ…」今までやってきたいくつかの表現とはまたちがう、新たな表現にチャレンジしたいということでした。

 

その方がやろうとされていることは話せないんですが、話をしていて感じたことが1つあります。それは、自分の表現をいろいろと模索することで、内にある自分を引き出そうとしているということ。ご本人がそうかは置いておいて、私が新たな表現をしたいと思うときはそうだからです。自分がそれまでに試した表現方法は、無限にある表現の中のほんの一部でしかありません。だから、本当の意味で自分が表現できているかどうかは分からないわけです。新たは表現方法に挑むことで、少しずつ自分のカタチが見えてくる。私は10年以上前、自分の得意な表現はコレ!と自信満々に見せたものに対して、「自分を分かった気になっている」と言われたことがあります。それはきっと、その表現が私と一致していないから。私の知らない私。それは、新たな表現を模索し続けることでしか分からないのかもしれません。

 

 

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いい意味で気楽に?

 

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 これが良い!という正解のないデザイン。仕事としてのシビアさはあっても、いい意味で気楽に向き合える仕事だと思っています。肩肘張ってやっていた時期もありましたが、最近はデザインを考えるときはリラックスできていて、とてもいい感じです。

 

あるデザイナーさんが、「気楽に考えた方が良いモノができる」と語っていました。ガチガチになって考えても、そこには理屈っぽい空気や辻褄を合わせたような匂い、緊張感が漂ってしまっていて、それが伝わってしまうからだそうです。自分がデザインしたものを使って楽しんでもらいたいなら、自分が楽しんでデザインする。安心感を与えたいなら、自分もリラックスしてデザインする。確かに自分の経験に照らし合わせても、気楽に取り組んだデザインの方が、喜んでもらえたように思います。「明日までに仕上げなさい!」と追い込まれても、ガチガチになってやっていては、結果的に良いモノにはならない。私は最近、いかにリラックスした精神状態で取り組むかを大切にしています。ちなみについ先日は、久しぶりに良くない状態だなと感じたので、近所の銭湯に行って気持ちを整えてみました。

 

 

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決まりごとから逃げない?

 

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 縦○センチ、横○センチのこのサイズでデザインしてください。それに対して、「違うサイズでもよいか?」「四角形じゃなくてもよいか?」「立体はOK?」なんていう質問をする人がいます。デザインを選ぶ側の人から話を聞くと、そういった質問をする人はまず選ばれないそうです。

 

自分にとってベストな表現で提案したい気持ちは分かりますが、決まりを変えるのはちょっとちがう。他にデザインをする人がいたら不公平になるし、投げかけた情報からやるべきことを理解する力も同時に試されているわけなので、そこでそういった質問をしてしまうということは、理解力が乏しいのを自分から伝えているのと同じになってしまいます。もちろん、1対1での提案や自身の創作活動であれば、ベストな表現や手段を考えるのは当然ですが、不特定多数に投げかけられたものだったら、決まりは変えてはいけない。でも、決まりから外れた提案をすることで、意欲や姿勢を伝えられるというメリットがあるのも事実。ただそれは、あくまでも異端な手法です。たとえ綺麗事と言われても、私は正々堂々と挑むことをおすすめします。

 

 

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入り口が険しい?

 

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 自宅で使うインクジェットプリンターをこれまで何度か買い換えていますが、昔と比べるとプリンター本体の価格はだいぶお手頃になりました。ただ、4色が8色になったりと、色数が増えてインク代がかさむようになったので、結果的には結構なお金を使っています。

 

入り口のハードルを低く設定する。家庭用ゲーム機なども以前より本体価格が低く設定されていますが、それはソフト面で利益を確保できるからだけでなく、まずファンをつくるところに注力しているからだと思っています。入り口のハードルをいかに下げるか?はじめからきっちり利益や成果を得ようとせず、それは後からでよいと考えているわけです。一方で、なかなか浸透しないものは、入り口が険しい印象があります。よく知らないことで尚且つ初めてのチャレンジだったら、それだけでもハードルが高いのに、費用まで高かったらせっかく興味を持っても手が出せません。費用面に限らず、気軽にチャレンジできる入り口をつくる。発信する側がどんなに気軽に入れると思っていても、お客さんにとってそれはまだまだ高いハードルかもしれません。

 

 

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「適当」は、集大成?

 

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「適当にその場で思いついたことをやっただけなんだよね♪」素晴らしい対応をする人に限って、そんなふうに言います。ただ、当然ながらテキトーにやってるわけではありません。「適当」を辞書で引くと、ちょどよく合うこと・ふさわしいこと。その場でふさわしいことを頭の中で取捨選択して出しているわけです。

 

いつもコメントが的確なタレントさんも、「適当に話してます」と言いますが、そんなわけはなく、自身がこれまで蓄えてきた言葉のボキャブラリーや経験から、何が適切かを考えて答えを導き出しています。無自覚か謙遜か、または褒められて照れ隠しかで「適当」と言っているだけ。人によっては、事前に受け答えをシミュレーションして、すぐに引き出せるように準備していたりもします。それでも「適当にやった」と言う。たぶん「センス」なんかも同様の使い方をしているのではないでしょうか。「適当」という言葉を鵜呑みにして、その人が本当に「テキトー」にやっていると捉えてしまったら、いつまで経っても「適当」な答えが出せません。私は「適当」はそれまでに培った経験の集大成だと考えています。

 

 

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