デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

串に刺したら売れた?

 

f:id:kazuhotel:20180919232117j:plain

 

 ある国で、日本のおでんを普及させようとしたところ、はじめは上手くいかなかったものの、串に刺して提供するという工夫で売れるようになったそうです。モノがわるい訳ではなく、提供の仕方が現地の人たちに合わなかっただけ。

 

商品が売れないと、その商品自体に問題があると考えてしまうことがあります。もちろん商品が良くない場合もありますが、提供の仕方が合っていないだけで、その商品自体には魅力があることも多い。例えば、単品で販売していて鳴かず飛ばずだった商品を3個セットにしたら売れはじめたり、パッケージを変えたら売れたりすることは多々あります。提供スタイルに独自のこだわりを持っているなら別ですが、もしそれがないのなら、提供の仕方を見直してみるだけで、売れない商品が売れる商品に変わるかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

たくさん出すのは整理するため?

 

f:id:kazuhotel:20180919232032j:plain

 

 これまでブログの中で「提案は1つが良い」と言ってきました。ベストな1案だけでいい…。ただ、時には複数案を出すこともあります。それは、判断を相手に丸投げしたり、いずれかが採用されれば良いということではありません。たくさん出すのはは、整理するためです。

 

イデアを練る際には、たくさん出した中から取捨選択したり、掛け合わせたりします。そうするのは、考えが整理できていないからです。それと同様に、相手の考えが整理できていないときには、まず整理することからはじめなければいけません。どうするか悩んでる相手に「こんデザインでどうですか?」と言っても、判断はできないんですよね。考えられる切り口やプランを見せながら話をして整理していく。複数案を出すときは、その作業をします。もし何案作ればいいのかと悩んでいる人がいたら、相手の頭の中、自分の頭の中が整理できているか確認してみてはいかがでしょう。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

同じことをやると個性が見える?

 

f:id:kazuhotel:20180912232057j:plain

 

 あるアイドルグループをプロデュースしている人のインタビュー記事で、おもしろい話がありました。「大勢が同じことをすることが、ファンに個性を知ってもらえる一番の方法だと思うんですよね~」。同じ衣装を来て、同じ振り付けで踊る。だからこそ、個々の魅力が引き出されるという話です。

 

確かに、それぞれが自分が思うように目立つ行動をとったり、それぞれが自分の得意なことに取り組んでいても、個性は感じません。そこで感じるのは、どちらかと言えば主張。私が個性を感じた場面を思い返してみても、同じテーマで描かれた色んな人の絵を観たときや、制服を着た学生が教室に着席しているところなど、同じことをしている場面がほとんどでした。個性!個性!と、周りの人と異なることをやろうと考えたりしますが、もしかすると、それはかえって個性を消しているかもしれません。良く考えたら、その人だけがやっていることについて比較対象がなければ、それが個性的かどうかは分かりませんよね。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

全体的に揃える?

 

f:id:kazuhotel:20180912231928j:plain

 

 デザインというと、全体的にトーンやテイストを揃えるものだと考える人がいます。どのページも同じ色を使って、同じ文字を使って、同じフォーマットにのっとって…。でも私たちは、そんな揃えられたものにばかり魅力を感じるわけではありません。私に限って言えば、揃っていない方が魅力を感じる場面もたくさんあります。

 

雑貨屋さん。整然と陳列されたスタイリッシュなお店も魅力的ですが、いろんな商品が混在していて、どこに何があるのか分からない宝探し感のあるお店の方に魅力を感じたりします。繁華街の駅周辺のように、いろんなものがそれぞれの主張をしてるカオスのような空間はとても面白くて飽きない。私たちは、どこか整理されていないものに魅力を感じる面があると思っています。だから、整えることがベストな選択とは限らない。私は、テイストの同じ住宅が並ぶ新興住宅地でどこか落ち着かない感じになるんですが、それと同じように、心地よいデザインが“整えること”とは限らないと考えています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

何かあるときだけ発信する?

 

f:id:kazuhotel:20180912231741j:plain

 

 新聞や雑誌は定期的に発行されます。ニュースも、今日は何も取り上げることが無いから…といって、休むことはありません。何かしらの情報を届けるように、裏側で努力しています。

 

何か発信すべきことが起きたときに発信するのは簡単。ただ、それを定期で行うのは難しいですよね。そんな中で定期的に発信を可能にしているのは、発信する情報をストックしていたり、伝える切り口の引き出しが多いからだと思っています。例えば、新商品を紹介する。ある人は「こんな新商品が出ました!」だけですが、別のある人は「○日にこんな商品が出ます」「出ました!」「こんなコメントをもらいました♪」「実はこんな商品開発秘話があって…」と、1つの事柄に対して様々なことを発信しています。それを可能にしているのは、情報のストックと切り口の多さ。もし他にもっと発信すべき事柄が発生したら、それを伝えて他がお蔵入りになることもしばしばですが、発信し続ける人はそういった体勢を常につくっているので、発信する情報が絶えることはありません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

手を加えて薄まる?

 

f:id:kazuhotel:20180912231650j:plain

 

「手を加えれば加えるほど、濁っていく。」学生時代にそう教えてもらったことがあります。詰めが甘い!考えが足りない!とよく怒られていた頃だったので、「手を加えすぎない」と言われても、当時はピンときませんでした。

 

真意は、加えるべき手を吟味してから加えるということ。絵の具のように、混ぜるほど濁っていくモノであれば、どれをどれだけ加えるかは十分に考えてから加えないといけないし、一方では、光の三原色のように加えるほど明るくなるモノもある。その時に指導された理由は、私が絵の具のように加えると濁るモノしか加えることができなかったから。手間をかけるほど精度が上がるようなことを考えられなかったのでしょう。「手をかけなさい!」と教えられたこともたくさんありますが、それは光の考え方。いろんな指導をもらったおかげで、両極端のことも元を辿ればどちらも同じことを言っているケースが多いのだと知りました。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

ラフだからいい?

 

f:id:kazuhotel:20180906125950j:plain

 

 コンビニでよく見かける週刊誌のような体裁の分厚いマンガ本。決して安いわけではないんですが、よく売れているそうです。中身のボリュームや、一冊で話が完結する点ももちろん魅力ですが、売れている理由の1つは“ラフなつくり”。きれいな単行本は、車の座席にポンと投げたり、暇つぶしで読み終わったら捨てたりできない。週刊誌のような感覚で読める“ラフなつくり”だから、気軽に読めて勝手がいいそうです。

 

私たちはデザインを考える際、当たり前のようにより良い体裁を求めます。仮にどちらを作る場合でも同じ費用がかかるのなら、きれいな方を選ぶ。でも、それは時に正しい選択ではない場合もあります。夏のお祭りでたくさん出ていた露店でも、焼きそばが発泡スチロールの皿で出てくるからいいし、りんご飴も割り箸に刺さっているからいい。きれいな紙皿や割り箸で無いことが、大人が普段できない外での食べ歩きには丁度いいんです。体裁を良くするのは大事なことですが、そこに縛られすぎるとある環境で求められている体裁から離れてしまうこともあります。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

日本人力士の優勝を期待する?

 

f:id:kazuhotel:20180912231447j:plain

 

 先日のテニスの全米オープン大坂なおみ選手が優勝した際の会場の雰囲気について様々な意見があります。1つ私が思うところは、自分たちも似たようなことを考えているということ。身近な人を応援するし、努力を知っている人を応援する。

 

例えば、相撲。久しく日本人横綱が不在の状況で、日本人力士の横綱昇進がかかった取り組みだったら、私たちはどこかで日本人横綱の誕生を期待します。勝てば当然のように座布団が舞う…。自分が可愛がっている後輩が就職の面接で落とされたときに、採用された知らない人を心から祝福できる人はそういません。「そんなこと関係なく、勝者を祝福するべきだ!」自分がそう思うのも、周囲にそう思ってほしいのも分かるんですが、自分にもそういった一面が少なからずあることを忘れているような気がします。このニュースを見て、素直に祝福してほしいと思った反面、自分がアメリカ人だったらそれができるのかと考えてしまいました。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

守るモノ?守らなくていいモノ?

 

f:id:kazuhotel:20180906125903j:plain

 

 つい最近、生意気ですが相談された仕事を断りました。かっこつけた言い方をすると、自分が守るべきことを守りたかったからです。私はこれまで何かを断るたびに「これも仕事なんだから!」と言われてきました。でも、やっぱりここは守りたいと思っていることは守りたい。そんなことばかりしているので、離れていく人も多いんですが、私はそれでもよいと思っています。

 

あの芸能人、あんなことまでやるようになっちゃったのかぁ…ショック。テレビを観ていると、たまにそんなことがあります。きっとその仕事を受ければ、露出も増えて認知度が上がるし、仕事も増える。でも、そこをやってしまったら、それまでやってきたことにも傷が付くし、それまで応援してくれた人を裏切ることにもなる。それは誰でもできるような仕事をしないとか、安い仕事をしないといったことではありません。そうは言っても、生活のためには致し方ないこともあると十二分に理解していますが、みんな身近な誰かにやってほしくないことってあると思うんです。勝手ですが、それはやらないでほしい。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

批判覚悟?

 

f:id:kazuhotel:20180906125820j:plain

 

 何かを発信してリアクションが薄いと、それは失敗だと言われます。称賛も批判もされない…。それが怖くなると、批判覚悟でより強いモノを発信しようとします。でも、私は批判されると思って発信するのはあまりよくないと考えています。単に臆病なだけかもしれませんが、批判されると分かっていて批判されるのと、批判されないようにした上で批判されるのは少しちがう。

 

ネットニュースで、たびたび著名人のコメントが炎上したなどが取り上げられますが、同じ炎上でもやっぱりちがう。内容は様々ですが、批判を承知で批判された場合は、発信者のリアクションが早く、批判されるなんて思ってもいない人が批判された場合は反応に戸惑いが感じられます。分かっていて批判された人。分からなくて批判された人。どちらを好意的に捉えるかといったら、やっぱり後者です。発信する内容を見れば、批判を想定しているかどうかは分かります。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

チャチャっとつくるとウケる?

 

f:id:kazuhotel:20180906125721j:plain

 

 じっくりと考えて作ったものより、短時間でパパッと作ったものの方が人の目に止まることがあります。私自身もそんな経験があるんですが、同じ経験をした人と話をしていると、適当にやったものがどうして?と不思議に思うこともしばしば。偶然で片付けてしまうのは勿体無いので、その理由を少し考えてみたところ、邪念がないからではないかと思いました。

 

ロジックを成立させるためには…相手を納得させるためには…提案に深みを持たせるには…ヒネリやユーモアを入れて…etc。じっくり考えると、もっと良くしようと欲が出ます。それが良い方向に働くこともありますが、制作者の意図や影が透けて見える、少々いやらしい作品になることも。単に、「面白そうだな♪」「これやったみたら、どうなるんだろう♪」といったアイデアには、そういった邪念が無い分、ストレートに伝わるチカラがあるのではないかと思っています。だからと言って、しっかり考えなくてよいわけではありませんが、時には力を抜いて作ったものを、そのまま伝えてもいいのかもしれませんね。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

他にもできるなんて知らない?

 

f:id:kazuhotel:20180906125632j:plain

 

「Aさんって、こういうデザインが得意なんだよね!」そう声を掛けられていたデザイナーのAさんは、実はもっと得意なことがたくさんあります。ただ、人目に触れているのが“こういうデザイン”ばかりなので、Aさんが得意なことはソレになってしまっているだけ。

 

私も以前、「○○な感じのデザインが得意なんですね」と言われたことがあります。そう言われて最近の仕事を振り返ると、確かにそういったものが多かったんです。その時はあまり深く考えませんでしたが、後になってドキッとしました。需要があるからその仕事が多かったわけで、得意だと思ってもらえるのは良いことなんですが、それ以外が苦手だと思われていたからです。むやみに何でもできます!と主張する必要はありませんが、せっかく得意なことがあるなら、できないと思われてしまうのは勿体無い。誰しも常に何かしらのイメージを持たれていると思いますが、それはそれとして、他にもできることがあったらアピールした方がよいかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

お互いにリスクを背負う?

 

f:id:kazuhotel:20180906125547j:plain

 

 誰かと誰かが何かをやろうとしたとき、お互いにリスクを背負っていると良い結果が得られるという話を聞きました。一方に負担が偏っていたり、一方が失敗しても特に支障がないようだと上手くいかない。逆に、双方が失敗できない状況だと、1+1が3にも4にもなるそうです。

 

話で例に挙げていたのは、小売店。メーカーにオリジナル商品を作ってもらって大量に仕入れたら、売れ残った場合大赤字です。オリジナル商品を作ったメーカーも同じで、そのために準備した製造ラインも、これから作り続けると想定したもの。売れなかったら大きな損失があります。そうなると、小売店は注文が入ったら作ってもらうような仕組みを選び、メーカーはそれでも支障がないように簡単なつくりにしたり単価を上げたりします。前者は互いにリスクを背負った方法。後者はリスクを最小限に留めた方法。一見、後者の方が無難ですが、売れなくても大丈夫だと一生懸命売らないので、結果的に小売店もメーカーも得るものがほとんど無いまま終わってしまいます。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

自由課題に取り組む?

 

f:id:kazuhotel:20180906125502j:plain

 

 自由になんでも作っていいと言われて、頭が真っ白になったことが過去に2回あります。1回目は学生時代で、課題を与えられて応えることを続けた後、4年生で自由な卒業制作をやるとなったとき。2回目は会社員時代で、仕事に慣れてきた頃に、自由なテーマのコンペに参加したときです。

 

いずれも、課題や条件を決めてもらうことにカラダが慣れてしまって、いざ自分が好きにできる状況になっても何も考えられなかったんです。2回目の経験以降、私は仕事とは別に、定期的に自由に考える時間を取るようになりました。私もそうですが、仕事で関わったデザイナーたちは、意外と自由に考えることが苦手な印象があります。その人たちのこれまでの作品を見ると、従事していた仕事に寄っている傾向があったり…。自由に考える。それはとても難しいことなんですが、たまにやるだけで普段とは異なる切り口や方法を見つけられたり、課題を見つける力が身に付きます。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain