デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

工程を端折る?

 

f:id:kazuhotel:20180906125406j:plain

 

 これまで、十分な時間とお金、人がいる環境で仕事をしてきたことがほとんどないので、何かの作業をしたり、仕事を進める際は、工程を端折るのが当たり前になっています。やらなければいけない工程はもちろんやりますが、やらなくても大きな支障のないことは端折る。

 

例えば、内容のチェックを3人で行えば、ミスを防ぐ確率は上がると考える人もいますが、それを2人にしても経験上あまり変わりません。他の人がミスを発見してくれる安心感が、自身のチェック精度を下げることもありますし、2人の場合はどちらかが必ず見つけなければならないプレッシャーから精度が上がるケースもあります。工程を端折ると聞くと、楽をしようとしているように感じるかもしれませんが、限られた環境の中で最大公約数を探してみることのもオススメ。端折ってもし時間が余るようなら、それをもっと有意義に使えるかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

負けないポジションに居てはダメ?

 

f:id:kazuhotel:20180829072545j:plain

 

 私は、明らかに成長が止まったなと自覚できたタイミングが何度かあります。その1回は、勤めていた頃に誰からも文句を言われないポジションになったときです。当然のように私の元にデザインの仕事が来て、その仕事を自分でやるか他の人に任せるかは自分次第。自分が関わらないプロジェクトが無くなっていました。

 

負けないポジションにいるようなら要注意。勝ち負けなんてありませんが、競う立場にいることはとても重要で、自分が関われるとは限らない環境が、さらに成長しなければという意識を強くします。逆に、当たり前のように自分の元に来ると、今の自分で良いと無意識に思ってしまう。だから、もっと成長したいと思っている人には、負けるかもしれない環境に飛び込むことを勧めています。今の環境から離れなくても参加できる“勝てない環境”はたくさんありますからね。私はつい最近、大学生と中学生にあることで負けました。まだまだだなぁ…。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

上司のSNSはフォローしない?

 

f:id:kazuhotel:20180829072450j:plain

 

 勤めている会社や上司のSNSをフォローしないと非国民のように見られてしまう。そんな話を聞きました。会社からフォローするよう促され、リアクションが義務のようになり、いくら残業が無くなっても、朝起きてから寝るまで気が休まらないそうです。

 

労働時間などの働き方の問題が度々取り上げられますが、前述のようなことが意外と根深く、プライベートとの境が無くなっていることについて考える必要があるのではないかと思っています。私のようにどう思われてもいいと思っているなら別ですが、真面目な人ほど悩まされていること。会社のためになるなら!と、プライベートで毎日のように宣伝活動をしている。そして、会社はその意識が無い。「いや、気が向いたから投稿しただけで、みんな反応しなくてもいいんだよ。」そんなことを言っていたって、反応してくれる人を贔屓してしまうのが人間です。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

脱パズルレイアウト?

 

f:id:kazuhotel:20180829072358j:plain

 

 デザインをする際、必要な要素を集めて整理し、あるべき姿を導き出す。その方法は理にかなっていて、私もその方法を使います。無駄のない整った姿。ただ一方で、その方法は良くないと指導したことが何度かあります。「パズルレイアウトはやめなさい」

 

私が指導した人は、お店の商品レイアウト、ポスターに記載する情報のレイアウトなどで、情報を集めてパズルのように収めていく方法をとっていました。間違いではないのですが、思考が「上手く収めること」に向いてしまうことが多々あったからです。きれいにまとめることも重要です。ただ、こういう姿にしよう!と漠然とでもイメージを持っておかないと、都合に合わせて目的を変えてしまったり、つじつま合わせや、後付けでメリットを考えたりしてしまいます。結果、それっぽいものが出来上がるのですが、目的に向かわず機能しないことも…。パズルレイアウトが当たり前になっている人は要注意です。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

響かない言葉?

 

f:id:kazuhotel:20180829072313j:plain

 

 自分の言葉が相手に届かないのは、その言葉の裏付けが見えないから。ある人にそう言われたことがあります。私はこのブログで好き勝手なことを言っていますが、本音を言えば、誰かの心を打つなんて微塵も思っていません。私の言葉には裏付けがないからです。

 

「量より質にこだわりなさい」これは、たくさんの量を経験してきた人の言葉だから響くもの。たいした経験もない人が言っても響きません。「考える前に行動しろ!」も同じ。考えてから行動に移してきた人が、考えずに行動したときのメリットを知っての言葉です。街中で、素敵なキャッチコピーをたくさん見かけますが、その中の半分以上は私には響きません。言葉の裏側が見えないからです。サラリーマンでもスポーツ選手でも、その人の現役時代を知っていると話が入ってきますが、現役時代を知らない人の言葉は入ってこなかったりします。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

イエスマンと呼ばれるスゴい人?

 

f:id:kazuhotel:20180829072224j:plain

 

イエスマン」そう呼ばれてしまう人を私は尊敬しています。みんなが自分の意に反することを認められなかったら、何も前に進みません。いろんな葛藤があったとしても、やりましょう!と賛同してくれる人がいるから前に進むわけです。

 

自分の意見を述べる。きちんと主張をする。そういったことが重要みたいに言われますが、私は単純にそうだとは思っていません。自分の意見を抑えたり、主張を控えることができる人の方が賢いとすら思っています。例えば、社長がやると決めたことに対して、何かを言ってもやることに変わりないのなら、やる方向で別のことを議論した方がいいわけです。みんなで意見を出し合うのも時には大事なことですが、その意見がまとまらないのであれば、それぞれの主張が却下されたイメージが残るだけ。疑いを持たずにすぐにOKと言える人は、今ではなく先を見て行動しているような気がします。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

維持するために参加する?

 

f:id:kazuhotel:20180829072129j:plain

 

 私は定期的にあるフットサルチームに参加していますが、正直、スケジュール的にしんどい時は「欠席しようかなぁ…」と思うこともあります。でも、基本的には無欠席。カッコつけてる感じに聞こえるかもしれませんが、理由は、そのフットサルチームの活動を維持するためです。

 

不定期に開催していて、小さな子供がいる家庭や、仕事の都合がつかない人は、毎回参加できません。中には参加できるときだけ参加する人もいます。そんな中でも、毎回一定の人数を集める必要がある。主催の先輩が費用を裏で負担していたりするので、私は少しでも回せるように参加しています。参加したいとか参加したくないとかは関係ありません。「行きたくないから」といった理由で集まりに参加しない人もいますが、自分の都合だけではなく、その集まりの目的を果たしたり、活動を維持するために参加することも必要だと思っています。自分だってきっと助けてもらうときがありますからね。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

ニセの台本を本気で作る?

 

f:id:kazuhotel:20180829072027j:plain

 

 それ自体は本筋に関係の無い、いわゆるダミーを作ることがあります。見せかけだけで良いモノ、本当にそれでなくても良いモノなど、人によってはそこに力を注ぐ必要は無いと考える人もいます。でも、私の周りにいる優秀な方たちは、そこを妥協しません。

 

例えば、ドッキリでターゲットを騙すためのテレビ番組のニセ台本。役割としては、ターゲットが疑いを持たないぐらいの仕上がりであれば問題ありません。しかし、プロはそこで手を抜きません。あるラジオで、ターゲットになったタレントがニセの台本のクオリティーを絶賛。「放送枠やスポンサー、キャスティング、進行のリアルさまで完璧すぎて引きますよ(笑)」。写真や動画にほんの少し映り込む小物だって、ほとんど見えなくても手を抜けば抜いた分だけ嘘っぽさい空気が漂ってしまいます。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

見ているのは好きなモノだけ?

 

f:id:kazuhotel:20180829071932j:plain

 

 私が住んでいる町には、サッカークラブのホームスタジアムがあり、試合がある日は駅周辺にユニフォームを着た人が溢れています。しかしある日、地元の友人が「最近やたらと野球のユニフォームを着てる人が多いよね」と。私はその変化に気づきませんでした。

 

サッカーのユニフォームが目につくのは、近くで試合があるからではなく、サッカーが好きだから。野球はシーズン中毎日のようにやっているので、本当は野球のユニフォームの方が見かける機会は多いかもしれません。それでも見ていないのは興味が向いていないから。私たちは普段、好きなモノばかり見ています。逆を言えば、好きでないモノは見ていない。もし、自分が知見を広げたいと思ったら、何かの機会に身近な誰かがどんなモノを見ているか聞いてみるのがオススメです。私はそれ以来、野球のユニフォームに敏感になってしまいました。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

カッコいいとダサいの境界?

 

f:id:kazuhotel:20180823141549j:plain

 

 最近よくダンスをしている人を見かけるんですが、見ていてカッコいいなと思う人とダサいなと思う人に私の場合は分かれます。完全な偏見ですが、テレビを見ていても同じで、プロかアマチュアか素人かといった違いでもありません。プロの上手なダンスを見てもカッコわるいと感じることもあるからです。

 

よくこの違いは何なのか考えてみるんですが、答えは出ず…。すごく抽象的ですが、「それがその人に合っているかどうか」がそう感じる理由でしょうか。巧みなダンスもぎこちなく見えたり、カッコいい振り付けのはずがダサく見えたりするのは、その人にふさわしくないからではないかと。清楚な女性が激しいダンスをしているのは、それはそれで魅力的なのかもしれませんが、その人のイメージに合っているわけではありません。そこに違和感を覚えてしまうんです。素敵な商品に出会ってもそのお店で買わなかったり、素晴らしいことをやっていてもカッコつけているように感じるのは、もしかすると合っていないから?そんな気がしています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

魚が嫌いな魚屋さん?

 

f:id:kazuhotel:20180823141443j:plain

 

「好きなことだから一生懸命取り組める」もっともらしい言葉に聞こえますが、私はあまりそう思っていません。好きなことを見つけてそこに力を注げたら、それはそれで素晴らしいことですが、別に好きなことでなくても良いと思っています。事実、好きではなくても、一流の腕を持つ人や生き生きと働いている人がたくさんいるからです。

 

魚屋さんは実は魚が嫌いなんて聞きますが、私の身近な人もそう。甘いものは食べないパティシエや、話すのが苦手な接客業の人、力仕事が苦手な引っ越し屋さんだっています。でも、彼ら彼女らはその道のエキスパート。好きであることが一流を目指す上で重要であるかのように誤解している人もいますが、決してそんなことはありません。それに、その道が自分が好きなことがどうかなんて分からないわけですから、好きなことだけを基準に道を選ぶことはないんです。今の時点で、好きかどうかなんて、そんなに深く考えなくてもいいはず。好きなことや得意なことを選べばうまくいくわけでもありませんからね。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

何回でも楽しめる?

 

f:id:kazuhotel:20180823141334j:plain

 

 志村けんさんが、好きな芸人としてタカアンドトシさんと千鳥さんを挙げていました。理由は、同じネタを何度見ても面白いから。昔の漫才師は必ず十八番ネタを持っていて、お客さんは同じネタと分かっていても見てしまい、毎回爆笑を生んでいたそうです。

 

最近の芸人さんたちの傾向にもあるようですが、私たちは、あれこれ手を変え品を変え飽きられないようにする傾向があります。でもそれは、よく考えたら少しズレているかもしれません。お客さんの気持ちをキャッチし続けていることに変わりはありませんが、結果的に当初のモノは飽きられているからです。遊園地のアトラクションで、乗った直後にまた乗りたくなることがありますが、そのぐらいのモノを追い求めないと本当はいけない。飽きられるのが怖い気持ちは、メンタルの弱い私もありますが、いざ飽きられたときにすぐに別のモノに切り替えられるようでは、いつまで経っても芯まで響くものは作れないかもしれません。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

一番安い商品を買いたいわけじゃない?

 

f:id:kazuhotel:20180823141209j:plain

 

 私は、欲しい商品をできれば安く買いたいと思っています。でも、欲しい商品の中で一番安いものを買いたいわけではありません。手の届く範囲で、一番良いと思った商品を買いたいわけです。だから、一番安い商品だけ教えてもらっても興味が湧きません。

 

「1,980万円~」マンションの広告などで最低価格が記載されていることがありますが、1,980万円の商品があることは分かるものの、価格帯の幅が分からない。だから、自分が検討の土台にあげられる対象かも分からないんです。確かに、「1.980万円~2,980万円」と「1,980万円~9,980万円」だったら、後者を高く感じます。でも、対象になりうる商品かどうかは判断できます。まず、興味を持ってもらうことが重要。それは、広告を作る仕事をしている私も十二分に理解できますが、せっかく興味を持っても、欲しいと思った商品に全く手が届かなければ意味がないと思っています。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain 

真剣にふざける?

 

f:id:kazuhotel:20180823141056j:plain

 

 誰かを楽しませよう!驚かせよう!とするとき、中途半端にやると変な空気になってしまうことがあります。一方で、全力でやった場合は、相手も周囲もその全力に大なり小なり乗っかってくれます。

 

以前、妻の勤め先の店長に、思いっきりふざけた誕生日プレゼントをあげようという話になりました。そういうのを楽しめるタイプの店長で、私も知っている人なので、夜な夜ないろんな仕掛けを作ったんですが、これが大変で、裁縫が得意な人に衣装を作ってもらったり、絵が得意な人にイラストを描いてもらったり、勤め先の人たち総動員で何とか当日を迎えました。当日は私は参加しませんでしたが、妻に動画を見せてもらうと、店長本人はもちろん、普段おとなしい人までケラケラと笑う声が聞こえてホッとひと安心♪何でも全力でやればそれはそのまま伝わるのだと改めて感じました。逆を言えば、手を抜けば、それもそのまま伝わるということなんですけどね。

 

 

f:id:kazuhotel:20160612063723j:plainf:id:kazuhotel:20160612063723j:plain