別の何かで補う?
料理をしない人はピンとこないかもしれませんが、もし料理本のレシピに片栗粉と書かれていて自宅に片栗粉が無かったとしても、私は急いで買いに行こうとは思いません。コーンスターチを使ったり、とろみを出す目的だったら、別の何かを使えばいいからです。
ある料理研究家が、料理ができるようになりたい人がなかなか上達できないとして挙げていたことは、レシピ通りに作ることしかやっていないからでした。他の何かで代用したり、書かれていないモノを加えてみたりしないから、本の通りにしか作れないという理由です。こんなことを言ったら失礼ですが、確かにスーパーでメモを見ながら材料を探している人は料理ができなさそうですよね。料理に限らず、別の素材や手段を持っていない人は、何かを作るときに手が止まってしまう印象があります。自分がやりやすい素材を揃えるのも方法の1つですが、ある素材で作れるようになるのも大事。私たちが料理ができる人と言われてイメージするのは、冷蔵庫の残り物でチャチャっと何かを作れる人です。
リミッターを外してみる?
子どもの頃はいろんなことを吸収するのに、大人になるとあまり吸収できない。その理由はいろんな研究で明らかになっていますが、最近自分が体験したことも、その理由の1つでないかと思いました。それは、リミッターを外すこと。幼い子どもは全力で遊びまわってますよね。私たち大人は日頃セーブしていることがほとんど。何でもいいからリミッターを外してみると、子どもと同じようにいろんなことを吸収できるような気がします。
先日、少し遠出をして海が見える所に行きました。普段なら海の近くまで行って引き返すんですが、その時は浜辺まで…。絶対に濡れたくなかったんですが、不意の波で靴が濡れてしまいました。そこからはもうどうでもよくなって水遊びをしたんですが、これが大人になっても意外と楽しく、幼少期に戻ったような感覚になることができました。大人になると、この後や明日のことなんて考えずに全力で何かに取り組むことはほとんどありません。持っているお金を全部使ったり、誰かに迷惑をかけるようなリミッターの外し方はダメですが、外してもよい部分は外した方が得られるものは大きいかもしれません。
思い出があるから捨てられない?
買い物で、商品がキレイな化粧箱に入っていたり、手の込んだ品のある紙袋に入れてくれたら嬉しい気持ちになります。その箱や袋を大事にとっておいたりして。使う機会はほとんどないのに、とっておきたくなるから不思議です。これは、良い袋だからとっておきたくなると考える人もいますが、私はそれも買ったモノだから捨てられないのだと考えています。
その買い物で買ったのは、商品ではなく体験。普段めったに買えない服を買うと、とても満たされた気分になります。もちろん欲しい物を手に入れた満足もありますが、それを買うという体験で心が満たされています。箱や袋はいわば大事な思い出です。海外旅行に初めて行った時の航空券のように、それは体験した証。その人にとっては記念写真を捨てるのと同じようなものではないかと思っています。
悪い人はこんな姿じゃない?
パソコンのデータを盗む人。それを表すイラストを描くことになったとき、ハンチングにサングラスとマスクをした人や、目出し帽を被った黒い服装の人をまずはじめに描きましたが、すぐに「こんな人いないなぁ…」と思いました。それに、パソコンでハッキングする人は、直接出向くわけではないので、わざわざ変装する必要もないでよね。でも、私はサングラスとマスクの人を採用しました。
私たちが思い描く「悪い人」は、リアルからだいぶ離れています。テレビニュースで逮捕された人を見て「この人悪そうな顔をしているな~」なんて言うものの、その顔を別のかたちで見せられたら「悪い人」とは思わない。リアルを分かりやすく形にすれば伝わると考えるのも1つですが、みんながイメージするソレを形にするのも方法の1つ。電話番号のマークは、ガラケーになってもスマホになっても、おじさんたちが目にするマークだったら黒電話の受話器の形が分かりやすかったりします。
忘れる能力?
人の魅力の1つに「忘れる」という能力があります。自分自身を振り返れば、忘れてよかったこともあるし、忘れてしまいそうだから忘れないようにしていることもある。もちろん、忘れてしまって思い出せずに苦労したことも。一度記憶したことを忘れられなかったら、それはそれで大変ですよね。もし覚えられることに上限があったら、満たされたらそれ以上は何も覚えられません。
私の周りにいる仕事の先輩たちは、こう言ったら失礼ですが、よく忘れます。一緒に仕事をしている人たちは困っていたりもしますが、彼らはきっと一時的に覚えていられる量が自分で分かっていて、優先順位の高いことや重要なことを頭の中に残しておくために、その他を忘れるようにしているのではないかと思っています。だから、キャパオーバーになったり、忙しすぎてパンクしたりしない。真面目な人からすれば、伝えたことを忘れられたら頭にくるかもしれませんが、忘れられる内容はそこまで重要ではないことも多々あります。
食事で満たすこと?
夫婦お互いの仕事が忙しくなり、スーパーのお弁当や惣菜を買って食べることが多くなった時期がありました。都合の良い時間に好きなものを食べて、作る手間も省けて…。でも、たまった疲れが取れるかと思いきや、気持ちが重くなっていったのを思い出します。食事は、栄養をとってお腹を満たすだけの行為ではないんですよね。それ以降、毎日は難しくてもできるだけ家で食事を作るようになりました。
スーパーで各コーナーにいる人を観察すると、食材を選んでいる人たちは元気なように見えるし、惣菜コーナーやカップラーメンを選んでいる人たちは少し元気がないように見えます。料理が苦手ない人もいるので、食事はあくまでも例え話ですが、手間のかからないことを選んで満たされているように思ってしまうことがあります。でも、実は満たされていないことがある。手間がかかることには、ちゃんとそうするだけの意味があると思っています。
自分を出すべきか悩む?
「デザインに自分の色やこだわりをどこまで出すべきか?」そんなことで悩んでいる人がいました。相手のためを思ったとき、自分の色を出さない方がいいと考えていたのかもしれません。私の答えは、そこで悩んでいる時点で自分本位の考えにとどまっているのではないかと。本当に相手のことを考えたら、そこに目がいかないからです。
例えば、自分の両親が使うものをデザインするとき、両親が使いやすいようなデザインに落とし込みます。落ち着いた配色にするだろうし、親しみのある形状を選ぶと思います。でも、それは自分の気持ちを押し込めていることにはならないし、結果的に自分の考えや想いが表れている。仮にそのデザインに対して、周囲が「もっとスタイリッシュにすればいいのに!」なんて言っても、利用者がストレスなく使えればいいと考えています。もしそんな声を聞いて、「本当はもっとスタイリッシュにできるんだけどなぁ」と悩むとしたら、結局それは自己満足を求めているだけに過ぎないのかもしれません。
やりたい人は山ほどいた?
先日、仕事の合間に時間ができてしまったので、あるコンペの説明会というものにはじめて参加してみました。会場には、用意された席が足りないほどたくさんの人。「絶対、入賞してやる!」と殺気立った感じもあって、デザインで一旗揚げたい人はこんなにたくさんいるんだと再認識しました。
これまでも何度かコンペに参加することがあって、応募者3,000人なんて聞いてもあまりピンときませんでしたが、いざギラギラした100人を前にすると「こんな中で今まで応募してたんだなぁ…」と。情報として知っていることと、肌感覚で知っていることにはとてつもなく大きな差があります。自分が関わるコト、デザインするモノの利用者、実際の現場…。それらについての情報を知っているだけで満足していることはありませんか?現場に足を運んだり、実際の対象者に触れることで得られる情報は、ネットでは得ることはできません。
多数決で9対1でも1を選べる人?
仕事仲間の1人からロゴマークの制作を依頼されました。ブランドを立ち上げた主催グループのメンバーは男性ばかり。ターゲットは女性です。私は切り口を変えたいくつかのデザインを提出しました。すごく端折って言うと、提出したデザインは、男性的な案・女性的な案・その間ぐらいの案。選ばれたのは女性的な案でした。
依頼してくれた人に後日談を聞くと、関係者全員で投票をしたところ、圧倒的多数で男性的な案に票が集まり、その場にいた女性は女性的な案を選んだそう。私もある程度そうなると想定していたので、結果的には中間的な案に落ち着くだろうと予想していましたが、結果選ばれたのは、1票しか入らなかった女性的な案。理由は、ターゲットに一番近いスタッフだったからです。あくまで私の感覚ですが、この決断をできる人はあまりいなくて、主催の自分たちの想いや民主主義的なところを優先してしまいがちです。でも、それではうまくいかないことも多いのが現実。今回、そうやって選んでもらったブランドは成功する予感がしています。
知らないオジさんの夕食?
全く縁もゆかりもない知らないオジさんがいて、その人の昨日の夕ごはんがどんなメニューか知りたいと思いますか?正直、私は一切興味がありません。でも、もしそれが独特なメニューだったり、何かテーマを設けているメニューだったら、ほんの少し興味が湧きます。その夕ごはんを続けたことでダイエットに成功したということなら、さらに興味が湧くかもしれません。
自分のことになると盲目になってしまうことはありませんか?「こんな素敵な夕ごはんをSNSにアップしたら、きっとたくさんの人が見てくれるはず♪」...でもよく考えれば、自分を知らない人が興味を持ってわざわざ見に来てくれないと分かります。自分が知らない人の元を訪ねてみようと思ったとき、相手はどんなふうにしていたかをちょっと意識してみるだけで、自分のやることに興味を持ってもらえるようになる。客観的に自分を見ることができていると思っている人ほど、実は自分が見えていないことが多いような気がします。
理由なく好きかどうか?
まだまだ無名で売れていない人を応援してたら、その人がある程度有名になってきた。すると、そこでファンをやめる人と応援し続ける人に大きく分かれるそうです。応援をやめる理由は、もう応援しなくてもやっていけるようになったから。応援を続ける理由は、単純にその人のことを好きだから。
自分が何かをやってきて徐々にファンが増えてくると、ある時からファンの数が増えなくなって停滞するケースがあります。でもそれは、ファンが増えなくなったわけではなく、新たにファンは増えているけど、応援をやめる人も増えている感じです。ファンに自分たちのことを好きになってもらえれば、自分たちがどんな状態になってもファンで居続けてもらえる。野球チームやサッカーチームのファンは、そのチームの勝利や有名になるために応援しているというよりも、ただ好きだから応援していると思っています。好きな理由をたずねられてスラスラ答えられるとしたら、その理由がなくなったときは…。
“甘え”を含んだ確認?
ある工房の話。制作の過程で、弟子が師匠に「コレでよろしいですか?」と確認すると、そのモノを見ることなく「それでいい」とあしらわれるそうです。そして、完成したモノを持っていくと「こんなんじゃダメだ」と怒られる。
一見理不尽なようですが、私はこの師匠の対応でよいと思っています。なぜなら、途中での確認には、ちょっとした甘えが含まれているからです。「このぐらいで勘弁してもらえませんか?」という妥協や甘えをその師匠は見抜いていたのでしょう。本当に出来がよいと自分で思えているなら、途中でOKをもらう必要はありません。もちろん確認すること自体は大事なことです。でもそれが、合格点をもらうための確認だったら、途中で聞く必要はなし。「途中でOKって言ったのに…」なんて文句を言うのはおかしなことです。
シムシティに学ぶ?
都市を作るゲーム「シムシティ」。子どものときにやったことがありますが、とても難しくて、すぐに飽きてしまったのを覚えています。でもこのゲームは、1つのアクションに対する影響や、成り立たせるために必要なことなど、仕事にも通じる大事なことがたくさん詰まっていると思っています。
理想の街並みにしようと好きなモノを配置することはできません。インフラを整備しなければいけないし、都市に必要な施設をどこかに作らなければいけません。「コレはこの街に置きたくないから…」とはいかないのが、このゲームの魅力。俯瞰で物事を見る目を養う教材として、とても良いですよね。自分の街に作りたくない気持ちは分からなくもありませんが、このゲームをやったことがある人だったら、「他の場所に移してほしい!」「近所に作らないでほしい!」とは簡単に言えなくなるのではないかと思ってます。
100万円でベンツは売れない?
100万円で新車を買いたい人がいます。私がもしディーラーだったら、100万円で販売して利益が出る車を売ります。でも、お客さんの予算が少ないのを分かっていてベンツを売ろうとする人や、その予算で売る車は無いと伝える人もいます。
できる限り良いモノを提供したい気持ちは、みんな同じ。でも、それが仕事であれば、お客さんと自分の会社の双方が満足できるモノを提供する必要があります。予算の少ないお客さんに、「座席のシートをレザー仕様にした方がいいですよ!」と勧めるのは失礼。軽自動車を売るときもあれば、高級車を売るときもある。何でも品質が高いに越したことはありませんが、仕事では「相手の満足」と「会社の満足」を満たさなければいけないと思っています。プライベートなら好きなようにやっていいんですけどね。