デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

素材に敏感?

 

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 学生時代にデザインの勉強をしていた頃、同級生と競うように素材を調べまくっていたことがあります。「こんな素材があったよ!」他の人が知らない素材を見つけるたびによく自慢していたのを思い出します。新しい見本帳が届くと、古い方の見本帳をもらったりしていました。

 

今思えば、みんなが素材に敏感になっていたのは、素材を知るとデザインを考えやすいからかもしれません。「この素材でアレを作ったらおもしろいかも!」「ここを別の素材に変えたらどうなるかな?」など、特に新しいものを考えるような課題では、そういった素材ありきのデザインが多かったように思います。でも、単にアイデアが湧きやすいという点だけではなく、素材を知っていることはデザインにおいてとても大事なこと。以前、「どうしてその素材を使わないといけないの?」という先生からの問いかけに答えられなかったことがありましたが、それは他に適した素材があることを先生が知っていて、私が素材を深く調べていないことを見抜いてわざと聞いたのでしょう。「素材に敏感になれ!」自分に言い聞かせている言葉の1つです。

 

 

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信用されると嬉しい?

 

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 ごくごく普通のことで恐縮ですが、他人に信用されると嬉しい気持ちになります。それが初めて会った見ず知らずの人だったら、嬉しいこと以上にその人を尊敬してしまいます。自分が信用されると嬉しいのに、私自身が未だにあまり他人を信用できず、恥ずかしい限りです。

 

先日、ホームセンターで木材を購入しました。大きな合板を20枚。店員さんに購入する分をレジに持っていく必要があるか尋ねると、「内容を伝えてお会計いただければ大丈夫ですよ!」と。私は「〇〇の合板を20枚ください」と伝えて会計を済ませ、売り場の合板を数枚ずつ車に運び入れました。そんなことをする人はいないかもしれませんが、わるい人だったら、価格の安い商品を伝えて会計をしたり、購入数以上を持ち出す可能性だってあります。それは、ただただ信用してくれたということ。信用されるような実績があったり、長い付き合いだったり、すれば信用されることはありますが、何もないところから信用された経験があまりありません。木材売り場の店員さん、レジの店員さん、2人ともすごいなと思ってしまいました。

 

 

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解体するまで?

 

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 空間づくりの仕事では、舞台の美術さんのようなこともやっています。久しぶりにその仕事をやったんですが、そこで最近意識することが少なくなったデザインをする際の心構えみたいなものを再意識しました。

 

セットを持ち込んで現場で空間をつくるときは、現地で組み立てができるような設計が必要ですが、それよりも、簡単に撤去できるように考える必要があります。持ち込み用に使用する車がハイエースなら、バラバラにした状態でそこに積み込めるようにしなければいけないし、パーツを作る際も、大きな板や角材から効率よく材料が使えるよう考慮します。私は以前、家具屋さんで働いていたんですが、そこで工場に足を運んだり、物流に関わったり、家具を引き取る作業を手伝ったりしたことがありました。そこで、材料の取り方や運搬、設置や撤去など多くのことを経験して、デザインを考えるときに念頭に入れなければいけないことなのだと覚えました。「完成形だけを考えるのはデザインではない」もし、自分がそれらを考慮していなかったら、他の誰かが考えてくれているはずです。

 

 

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あるものから選ぶチカラ?

 

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「こっちの商品で、あっちの色があればいいのに…」買い物をしていると、よくそんなふうに無いものを欲しいと思ってしまいます。希望通りのものを探して見つかればいいのですが、それでも無いのに探し続けても、時間が過ぎていくばかり。理想を求めるのは大事なことですが、どこかで区切ることも大事だと思っています。

 

あるものの中から一番適したものを選ぶチカラをつけなさい!と、先輩から指導されたことがあります。極端に言うと、たっぷり時間をかけてほんの少し理想に近づく81点のものを選ぶなら、80点のもので即決する。私はデザインという理想を形にする仕事をしているので、若い頃はそういった決断を「そんな妥協…」とネガティブに捉えていました。でも、それは妥協ではなく英断。でも、そのためには世の中にどんなものがあるのかを知っていなければいけません。その先輩が私に言いたかったことは、世の中をもっと知りなさい!ということ。決断が遅いのは、“あるのかも分からないもっと良いもの”があるかもしれないと思うから。余裕があれば、探し続けることもそれはそれで大事なんですけどね。

 

 

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ごはんとおかずを食べるバランス?

 

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 定食やお弁当を食べているときに、多くの人は白いごはんとおかずをバランスよく食べていると思います。おかずをひとかじりしてから白いごはんをもりもり食べる人もいれば、白いごはんだけ一気にたいらげる人、最後に好きなおかずを残して堪能する人も♪最後にはごはんもおかずもキレイに無くなっています。

 

好きなことと嫌いなこと、得意な仕事と苦手な仕事などの進め方のバランスが、ごはんとおかずを食べるときに似ているなとふと思いました。少ないおかずに対してごはんが大盛りだったら、私たちはそれに合わせた食べ方をします。でも、バランスを考えずに食べ進めて、偏って残った方を残す人もたまに見かけます。そんな人は、自分の食事を思い出せば、きっとバランスよく進められるはず!ごはんとおかずのようにどちらも用意されているケースばかりではありませんが、仕事と休憩、仕事とプライベートなど、バランスよく進めると気持ちのよいものが生活の中にはたくさんあります。食事が苦手な人は少ないと思うので、他にも応用できるような気がします。

 

 

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ライバルは自分自身と言えるまで?

 

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「ライバルは自分自身」そんなふうに言えたらカッコいいなと思うんですが、今の今までそう思ったことはありません。いつも誰かをライバルに置いて、その人を上回れるようにと行動してきました。2人デザイナーがいれば、誰だって優れた方に頼みたいはずだからです。フリーランスとして仕事をするようになって、さらにそれが強くなってしまったかもしれません。

 

ある記事で、一流のスポーツ選手が「ライバルは自分」と言っていたんですが、その選手がまだプロになりたての頃は、具体的なライバルを挙げていた記憶があります。若くて血気盛んだったこともあったのだと思いますが、きっとその選手のように変わっていくのが自然なのだとふと思いました。「他人と比較するな!」「あなたはあなた。オリジナリティさえあれば…」と言った言葉をたくさんもらってきましたが、たぶん私はまだその域に到達していないのでしょうね。身近な誰かに目の前のチャンスを奪われたりすると、そのチャンスを掴むために、その人が持っていないモノやその人よりも優れた何かを求めてしまいます。そして何より、ライバルと思えるほど自分が努力をしていない…。いつか言えるようになりたいです。

 

 

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わるい印象は蓄積?良い印象は更新?

 

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 私はモデルルームのインテリアコーディネートを仕事の1つとしてやっています。ある会社の担当の人に出会った当初は「飾り付けをしてくれる人」と呼ばれていました。それが、私が関わった物件が売れるようになると「売れるコーディネートをしてくれる人」になり、直近の仕事で独特な雰囲気の空間をつくったら「独特な雰囲気をつくる人」と紹介されるようになりました。「売れる~」と言われた方がよかったんですが、それよりも独特の空間をつくったことの方が印象に残ったのだと思います。良い印象は更新されていく。

 

一方で、わるい印象は全て蓄積されていくような気がします。以前、私が先方の希望日に対応できなかったことがありました。そして、また別のタイミングで、家具を配送する業者さんが内装にキズをつけてしまったことがありました。すると、「希望日に対応してくれないし、内装にもキズをつける可能性のある人」になりました。それ以降、一切ミスを犯さなくても、わるい印象は消えず…。良い印象は最新の強い印象で更新されてしまう一方で、わるい印象はどんどん溜まっていくのかもしれません。

 

 

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改造はみんな得意?

 

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 絵を描くのが下手だし、何か新しいものを考えたりするのが苦手だから、デザインとかはちょっと…。昨日のブログの続きになりますが、デザインと聞いて敬遠する人も実際はたくさんいます。でも、その人たちのファッションや持ち物を見てみると、自身で考えた工夫がなされていることもしばしば。カバンにキーホルダーや缶バッチが付いていたり、いろんなアイテムを組み合わせて身に付けていたりします。

 

街中で中高生を見かけるといつも感心するんですが、学校で指定された制服やカバンで、さらに校則もある中でみんな個性を出そうと工夫しているんですよね。大勢集まっていても同じようでもそれぞれ違う。他の誰ともカブらないオリジナルを考えられる時点で、すでにデザインしているんです。既にあるモノに手を加えたり、組み合わせを変えたりするのは、デザインも同じこと。決められた条件のもとで、新しい何かを考えていることに変わりありません。モデルをやっていた人が引退後にデザイナーになったりするのは、自分がそれまでやっていたこととほとんど変わらないから。そもそも人はみんなデザインをしていて、ただそれをデザインと認識していないだけだと思っています。

 

 

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どんな経験でも活かせる仕事?

 

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 将来、デザインを仕事にしようか迷っている人に、私は「とても楽しい仕事だよ!」と勧めています。具体的にやりたいと思っている人はもちろんですが、今までデザインの仕事に携わったことのない人にも♪それは、どんな経験でも活かせる仕事だからです。

 

例えば、調理の仕事をしてきた人なら、現場の経験を活かして理想的な厨房の設計や調理器具のアイデアを考えることができます。販売の仕事をしてきたなら、お客さんの声を生で聞いてきた経験を活かして、お店のあるべき姿や、現場で活きる販促ツールを考えることができる。団体競技をやった経験があるなら、チームワークを良くする方法を考えられたり、家の中で過ごすことが多い人なら、外出が多い人よりも快適に室内で過ごす方法を考えられるかもしれません。自分ではピンとこなくても、その人ならではの経験が必ずあるはずなので、リアルな経験のない人には考えられないアイデアをたくさん出すことができます。技術的なことは後からどうにでもなると思っているので、もし気が向いたら気軽に門をたたいてみてください!

 

 

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同じノリは必要?

 

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 私は巷で言われるような意識高い系ではありませんが、誰かと仕事をするとなったら、できれば同じ意識で取り組みたいと考えていて、自分が主体といなっているなら相手にもそれを多かれ少なかれ求めてしまいます。ただ、同じ環境で仕事に取り組む1人ひとりが、同じノリであることが必要なのか?については答えを持っていません。

 

周囲を盛り上げるのが得意な人もいれば、冷静沈着に分析するのが得意な人もいます。はしゃぐことが楽しい人もいれば、じっくり会話するのが楽しい人もいる。賑やかな環境の方が仕事が捗る人も、静かな方が捗る人も。そういった様々な人を、同じノリに統一する必要はあるのか?と。仕事に対する熱さと、「イェーイ!」とハイタッチをするノリは全く別物。正直、私がいわゆる大学生のサークルノリ的なものが苦手なので、求められて窮屈になったり、無理矢理合わせていたりしたことに対して疑問を持っているだけの話なんですが、「同じ意識で!」「仲良くする!」などをノリとして捉えている人の前では未だに戸惑います。「仲良し=怒らない」ではないと思ってしまうんですが、それって協調性がないだけなんですかね…。

 

 

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入れ物が変われば印象も変わる?

 

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 祖父母の家でお正月に飲むコーラは格別でした。酒屋さんがケースに入った瓶ビールと一緒に届けてくれるアレ。缶容器より瓶いがあるという話もありますが、あの瓶で飲むスタイルがより美味しく感じさせたのかもしれません。普段は缶やコップで飲むことがほとんどですからね。

 

それと同じように、入れ物を変更しただけで印象が大きく変わるものがたくさんあります。パッケージのような入れ物そのもの以外にも、時間や場所や環境などを変えるだけでもいい。昼間からビールを飲んで格別なのは、普段夜に飲むことがほとんどだからだし、平日に遊びに出掛けて優越感に浸れるのは、平日仕事をしている人だからだったりします。自分が印象に残っているそういった例を思い出しても、中身や内容は他のタイミングと大差はありません。だから、印象を与えたい人がいたら、その人の慣れている入れ物を知ることが大事。慣れていいない入れ物に入れて提供したら、相手に強い印象を与えられるかもしれません。

 

 

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敬遠していたのに、今は普通?

 

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 つい1年前は煙たがっていたはずなのに、今になっては普通に使っている言葉がたくさんあります。「ヤバい」なんて日本語を使ってるのが信じられないと思っていた時期があったはずなのに、ふと使っていたり…。最近も「(話を)盛ってる」という言葉を話しながら、「昔はそういう言葉を毛嫌いしていたはずなのになぁ~」と我に返りました。

 

私は敬遠している物や避けている人が多いんですが、先ほど挙げた言葉のように、時間が経つとそうではなくなっていることも多々あります。嫌いは好きの裏返しなんて言いますが、興味を持っているモノであれば、時間の経過とともにいずれは受け入れているのかもしれません。ただ、それが受け入れるべきものならいいんですが、受け入れない方がいいものだったら…と考えてしまいます。意識的に受け入れているわけではないので自分では気付きづらく、さらにそれが自分のスタンダードになって『誤』だったものが『正』になってしまいます。自分で取捨選択できずに自然と浸透してしまうのはある意味で怖いなと思います。

 

 

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遊びを考える機会?

 

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 いい歳になっても、毎年お正月になると近所の河川敷で遊ぶんですが、年々子供を見かける機会が少なくなっている気がします。凧上げや羽根つきといったお正月らしい風景も見かけないのですが、単純に外にいる子供を見かけません。確かに暖かい家の中でできる楽しい遊びがたくさんあるので、分からなくもありません。

 

ただ、勝手なイメージですが、テレビゲームやスマホゲーム、ボードゲームなど与えられた遊びが多いのではないかと思っています。遊び方が決まっていて、さらに必要なものが予め用意されている遊び。遊びを自分たちで考える機会が少なくなっている印象があります。その辺に落ちているものを使って何かできないか?この環境を利用したおもしろいルールを考えられないか?そういったことを考える機会。私は子供の頃から「とにかく外で遊びなさい!」と言われ続けたせいか、道具はないけど外で遊ぶことに慣れました。そして仕事をするようになってからも同じようなことをよくやっています。必要なものが揃っていなくてもできることは無限にあると思っています。

 

 

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取り戻すには倍の時間が必要?

 

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 休むときは休む。仕事は仕事。私はそう考えています。だから、休みの日に仕事をしようとは一切思いません。ただ、自分の中で1つだけ休みの日でもやることがあります。それは、何でもいいから1日1個は頭を使うこと。すごく格好をつけると、考える訓練を怠らないように。

 

以前、ある仕事を辞めて数週間、何もしなかったことがあります。そして新しい仕事が決まり、いざ取り組もうとしたら、たった数週間前にはスラスラできていたことがおぼつかなくなっていました。「えっ?」そんなに簡単に鈍るとは思ってもいなかったので、とても驚き焦ったのをよく覚えています。体を鍛えている人が、数日サボっただけで取り戻すのにやめていた期間の倍以上必要だと言っていましたが、それと同じで、考える練習も怠れば、取り戻すのに時間がかかってしまうと思っています。わざわざ休日にやるのは確かに面倒。私の場合は、夕食を作ったり、出掛ける予定を立てたりと、プライベートのイベントにかこつけてやっています。もし、できていたことができなくなった経験があったら、負担なく続けられる方法を考えてみてはいかがでしょう?

 

 

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