デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

他の人でもいいけど私?

 

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 昨日、パソナキャリアさんが運営するお仕事情報サイト「はたラボ」に、私のコラムが掲載されました。前職で自分なりに気づいたことが今の仕事に役立っているという前向きな話なので、よかったら読んでみてください!

 

仕事を続けられているのは、 あの時の『気づき』があったから【フリーのデザイナーから、君へ】 - はたラボ ~パソナキャリアの働くコト研究所~

 

…で、そこには書かなかった『気づき』を1つ。私が退職を決断したとき、自分が居なくなったら会社の人たちは困るだろうと思っていました。それなりの役割を担っていたし、人員的にも負担をかけるだろうと。でも私の退職後、会社は何事もなかったように普通に回っていました。残念ながら、自分でなければ出来ない仕事なんてほとんどありません。

 

ただそこで、「どうせ自分じゃなくても…」と腐るのではなく、自分じゃなくてもいい仕事を自分が任されている意味について考えるようになりました。他にも選択肢がある中で自分が選ばれて任されている…。それからあらためて意識するようになったのは、そこに居続けるために努力をしないといけないことと、選んでもらっている有り難さ。当たり前のようにそこに居ることは、実は当たり前ではないと思っています。

 

 

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値札は毎日書き直す?

 

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 通りがかった商店街の八百屋さんが、店の片隅でダンボールの切れ端に値札を書いていました。夕暮れ時だったので、それはたぶん明日使う値札。今日の状況をふまえて、明日売るためにベストな価格と表現を考えて毎日変えているのではないでしょうか。

 

状況は刻一刻と変わります。でも、私たちはそこまで自分の提示する内容や表現を変えません。その八百屋さんほどではなくても、本当はその時その時に合わせて変えてもいいはず。時期的に「すっかり暖かくなって~」と表現していても、その日が肌寒かったらしっくりきません。すぐに変更できるものだから変えているということも確かにありますが、変更が難しいものでも、時には無理をして変えた方がより良い場合もある。一貫して姿勢を変えないのも1つですが、そこを少し頑張って変えている人や会社は、多くの人から支持されている印象があります。

 

 

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評価の高いお店は私に合うのか?

 

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 グルメサイトで評価が高いお店。単純にその評価だけで選べば、きっと大失敗することはありません。それに飲食店であれば、自分に合っているかどうかを無意識にこれまでの経験と照らし合わせているので、みんな自分に合うものを選べていると思います。

 

ただ問題は、はじめての海外旅行や高額な買い物などの経験の無いこと。自己評価をする基準がないので、目の前の他人の評価に頼るしかありません。経験のないことでも選べるようになればそれに越したことはありませんが、そんなことはなかなかできない。…で、結局は他人の評価が大事になってきます。ただ、他人の評価を見せる場合に「自分に合っていると思ったら選んでもらえばいい」と気楽に構えていても、そもそも相手が自分に合っているかどうかを判断できない内容も…。他人の評価を示すにしても、そこを認識しておく必要があります。自分に合っているかどうかを判断しやすい見せ方などの工夫をしないと、せっかく訪れた人も選ぶことができないかもしれません。

 

 

気にしたらキリがない?

 

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 電車でぼーっと広告を眺めていたら、「sweat」という言葉が目に止まりました。直訳すると「汗」。頭の中でそれがグルグルしだして、飲料のネーミングで「汗」は、中身と汗のイメージが混ざってしまうんじゃないか…と気になってしまいました。

 

完全に偏見ですが、ヒット商品のネーミングはどこかしらおかしなところがあります。きっとネーミングの会議では、気になる点が山ほど出たはず。それでも、どこかで割り切ってそのネーミングを採用したということです。私は粗探しをする役割になることが多いんですが、自分が出した懸念事項をすべてクリアしなければいけないとは全く思っていません。気になる点は、あくまで認識しておくため。すべてに配慮することはできませんし、そうするたびに、せっかくの魅力のあるネーミングが、ありふれた言葉に変わってしまったりするからです。丸めすぎてスッと入ってくるネーミングになったとしても、何の引っかかりもないようだと逆にネーミングとしては失敗だったりもします。

 

 

それは誰よりも分かっている?

 

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 仕事である町を歩いていたら、提灯屋さんを発見。お店の奥には、昔ながらの美しい提灯が飾ってありました。お店の横の工房をチラッとのぞいてみると、作っていたのはイタリア国旗柄に塗られた提灯。若者向けのイタリア料理屋などに吊るされているアレです。

 

すると、通りがかった人が、「あれじゃ伝統的な提灯が台無しだよ」と。それが聞こえた職人さんは、苦虫を噛み潰したような顔…。きっとそんなことは誰よりも分かっていて、それでもやらなきゃいけないからやっている。職人さんの複雑な気持ちが伝わってきました。おかしいと思ってもお客さんの要望に沿って対応する。そうしている人に対して、私は今まで平気で「それはおかしい!」と言ってしまったこともありました。でも、そんなことは誰よりも本人が一番分かっていること。より良いところを目指したい。あるべき姿を崩さない。…それは決して間違ったことでありませんが、分かった上でやっている人に言うべきではないときがあると思っています。

 

 

何ができるか興味津々?

 

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 建物を取り壊して更地になった場所にある建設計画を記載した看板。そんな場所を通ると、必ずと言っていいぐらいその看板をじっくり眺めている人を見かけます。確かに近所の人だったら、次に何ができるか気になります。先日見かけた人は、工事現場の人に直接話しかけて何ができるか聞いていました。それぐらいまわりの人は気になっているんですね。

 

以前勤めていた際、まわりの人から「今、何をやっているのか?」とよく聞かれました。どうして教えなきゃいけないの?と不思議に思っていましたが、相手はただただ知りたいだけ。もしかしたら、内容がわかれば自分が手伝えることもあると思ってくれていたかもしれないし、やっていることで出る影響を事前に把握しておきたかったのかもしれません。ただ不安だったり、仲間外れ感があるのかも…。自分がやっていることは、内容によっては話せないこともありますが、それが必要かどうかは別にして、できるだけ伝えた方が良いのかもしれませんね。

 

 

ずっと特別なまま?

 

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 こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、クリエイティブ〇〇といった名前を付けていて、本当にそう思える人やチームにあまり出会ったことがありません。もちろん関わることをやっているんですが、なぜクリエイティブだと感じないかというと、それを特別なこととして捉えているからです。当たり前のこととして浸透している方がよっぽどクリエイティブ。

 

だいぶ前のブログで、エコバッグを「エコバッグ」と呼んでいるからいつまで経っても浸透しないといった内容のちょっと辛口な記事を書きました。特別なモノとして捉えている限り、それは特別なモノ。当たり前のモノにはなりにくい。「クリエイティブ」や「エコ」を意識する、意識させるために、その言葉を使っているのは承知の上ですが、もしそれをスタンダードにしたいのであれば外してもいいんじゃないかと思ったりもします。

 

 

“そのとき”に欲しい?

 

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 突然ですが、皆さんがビニール傘を買った時はどんな状況でしたか?たぶんほとんどの人は、急に雨が降ってきたからではないでしょうか。おしゃれなビニール傘が売っていて買ってしまうこともありますが、安く売っていても必要なときでないとなかなか購入しません。

 

私がたまに利用するお店で、その時々で陳列を変えるお店があります。変更する理由は、“そのとき”に欲しい商品を見つけやすくするため。例えば、夕方のニュース番組のワンコーナーで、「花粉対策に良い食材」を紹介していたとします。するとそのお店は、その食材を一番目立つ位置に移動します。結果、その番組を見た人は購入する確率が高くなるわけです。天気予報、一瞬の話題、周辺のイベントなどに敏感になって、欲しいであろうものを用意する。私の家の近所に似たようなお店はたくさんありますが、“そのとき”を意識しているそのお店はとても好調のようです。

 

 

今、店員さんをどう呼ぼう…?

 

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 あるとき、私は「すいませーん!」と大きな声で店員さんを呼びました。またあるときは手をスっと挙げて呼んだし、またまたあるときは、ボタンを押して店員さんを呼びました。何を言っているんだと言われてしまうかもしれませんが、決められた方法があっても、私たちは状況に応じてアドリブで手段を変えています。

 

先日買い物をしたスーパーは、袋が有料のお店。レジの手間にあるレジ袋カードをカゴに入れるシステムで、レジ袋が欲しければそうするべきなんですが、列の人たちはそのカードを使っていませんでした。レジ係の人が「袋は必要ですか?」と聞いているのを、手前のお客さんは見ているから。カードを元の位置に戻すのも手一杯でできなかったようで、きっと口頭でやりとりした方が良い状況だったからです。通常の手段を使うことは正しいことですが、ときには機転をきかせて、別の手段を使った方がいい場面もあるかもしれせん。

 

 

一度貼られたレッテルの剥がし方?

 

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 過去に一度信用を失って、なかなか取り戻せなかった経験があります。どうやっても関係を回復できないんじゃないかってぐらい。「あなたに期待した私がいけないんで…」と言われてるようで、ショックでした。

 

一度貼られてしまったレッテルはそう簡単には剥がせません。特に信用を失うのは、「やります!」と自ら言ったのにやらなかったとき。いわゆる約束をやぶったときです。当然、次からの「やります!」には聞く耳を持ってもらえません。そうなってしまったときに私がとってみた行動は、業務とは別のところで姿勢を示すことです。例えば、言われていないことでも自分なりに提案してみたり、役立ちそうなことを調べて資料をまとめたり…。通常の業務に真摯に向き合っているだけでは見向きもされませんでしたが、それを続けてしばらく経ったとき、ようやく当初の関係に戻れてホッとしたのを覚えています。役割の範囲以外で示す。マイナスは±0のことをやっても無くなりません。私の場合はたまたまうまく回復できただけかもしれませんが、もし誰かの信用を失ってしまうようなことがあったら試してみてください。

 

 

反応があると過激になっていく?

 

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 バラエティ番組の罰ゲームやグラビアアイドルの写真について、反応が良いと制作はそれに味をしめてどんどん過激にしていく傾向があるという記事を読みました。SNSなども同様。良い反応があると、もっと!もっと!とそれを過激にしていくそうです。

 

たまにブログやツイッターを読んでいると、読んだことのある人の言葉が、以前よりも強い表現に変わっていたりします。煽るようなワードや、あえて他人の心を逆なでするような表現、対象の人がドキッとするような言い方…。確かにどれもそうしただけの反応があります。でも、以前のその人の印象は面影もなく、別人のようでどこか悲しい。反応がなくなるのが怖いのは、とてもよく分かります。常にセールを行なっているようなお店では、同じようなセールをやってもきっとお客さんは来ない…。だからと言って、それを過激にしていくばかりではどこかで息切れしますし、伝えたい人に伝えようとしていたことが、いつの間にか「誰でもいいから多くの人に…」へ変わっていることも…。私も気をつけたい。

 

 

翻訳結果が正しいか判断できない?

 

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「今さらはじめるの?」なんてよく言われてますが、つい最近になってインスタグラムをはじめました。何事も実際にやってみないと分からないですからね。海外でも見てもらえるので、私は少しだけ英語でコメントを添えているんですが、ここで当たり前のことにあらためて気づきました。「ネットで翻訳した英語が正しいのか判断ができない… 」。

 

英語ができなくても便利な自動翻訳があるから大丈夫♪と思っていましたが、よく考えたら、翻訳結果が日本語と同じニュアンスで伝わる正しい文章なのかが判断できないんです。結局、英語が分かっていないとダメなんだなとガッカリしました。仕事をしていて自分の知らないことが出てくると、調べた結果を正しいものとして認識してしまいます。マーケティングの結果も、過去の統計も、知らない分野の話も。でもよく考えれば、そこに出てきたものが正しいかどうかは判断できていません。調べれば情報が出てきてどんなに便利になっても、結局は判断できる力がないと意味がなかったりします。

 

 

 

この人が運ぶ料理は美味しそう?

 

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 あるステーキ屋に行ったとき、ラガーマンのようなガタイのいいウェイターさんが料理を運んできてくれました。筋肉もりもりでヒゲを生やしたその人が持ってきてくれたステーキは、なぜか味以上に美味しく感じて…。ただ、また別の日に訪れたときには、同じようには感じられませんでした。一度食べた味だからという理由もありますが、運んできてくれた人が色白で痩せた男の人だったからです。彼には何の非もないんですが、やっぱりお肉が似合う人が運んできてくれた方がいい。

 

私の妻はケーキ屋さんでパティシエ修行中なんですが、売り子さんは全員女子大学生のアルバイトだそうです。厨房も含めて、男子禁制。それは、ケーキ屋さんだから。どんなに美味しいケーキだって、むさくるしいオジさんよりも、ケーキが似合う若い子が手渡してくれたほうがいい。作ったものの仕上がりにばかり目を向けがちですが、そんな話を聞くたびに届け方にも目を向ける必要があると考えさせられます。

 

 

コピペは手を加えてもコピペ?

 

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 先日、ある仕事をしたお客さんから素敵なお礼の手紙をいただきました。どんなところが良かったか?どこに共感したか?自身の経験も交えて、長文で丁寧に伝えてくれました。私はただただ嬉しくなって、周囲に「こんな形でお礼を伝えられる人がいるんだよ!」と。もし次にこの人から何か頼まれたら、必ず応えてしまうと思います。

 

「この度は、有難うございました。今度とも宜しくお願い致します。」。メールなどでそんなビジネス的な文言を受け取るたびに、私は少し冷めてしまいます。名前を変えただけで、きっとどこかにも送っている言葉だから。逆に、たった一言でも自分の言葉で語られていると、私はそこに温もりを感じます。昔、前職の同僚が旅立つときに、彼女へのメッセージも込めて絵本をプレゼントしました。少し経って、彼女から届いたメッセージには、新天地でその絵本をネタにいろんな人と仲良くなれたことが綴られていました。今でも、その時のことはよく覚えています。