デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

クリエイター集団の弱点?

 

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 ここでいうクリエイターは、あくまで特異な能力を持った人たち。いわば、少し変わった人たちです。そんな人ばかりが集まると、ピンポイントではまれば最強かもしれませんが、はまらなかったときはキツくなります。

 

なので、世の中の常識を知っている人や、論理的な思考ができる人がそこに加わっていないと、クリエイターたちを生かした常勝チームにはなれません。お互いに欠けている部分を補い合える関係が必要。もしクリエイターしかいないチームだったら、誰かがその役割を担わなければいけません。私の知る限り、安定して強さを発揮するチームには、必ずそういった役割の人がいます。音楽のアーティストだって、劇団だって、芸術家だって、クリエイターだけで成り立っているチームはほとんど無いはず。こういった話をすると、「自分たちの哲学がある!」「世間に受け入れられるように作りたくない!」と嫌がるクリエイターの方達もいますが、そうではなくて、その哲学が伝わるようにしてくれる人や、受け入れられるかを判断してもらう場をつくる人が必要だということ。皆さんの近くに、常に結果を出しているチームがあったら、そのメンバー構成に注目してみると、おもしろい発見があるかもしれません。

 

 

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見物は相手の心境を考えて?

 

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 先日の台風19号で、自宅が被災しました。人の身長ほど水が溜まり、当日は避難を余儀なくされましたが、翌日から近隣で協力し合って、元の生活に戻れるよう今尚頑張っています。その最中、何人もの見物客がやってきました。靴の汚れを気にしながらスマホ片手に歩き回る姿は、住民の誰もが嫌な気持ちになったはずです。

 

私はこうなる以前から、興味本位でむやみに見物してはいけないと心に決めています。そこには少なからず嫌な気持ちになる人がいるからです。少年野球や運動会を関係のないおじさんが金網の外から見ていたら保護者は不安になるし、救急車が近所に来たからといって野次馬が集まったら、当事者は少なくとも良い気持ちにはなりません。「被害の状況を目に焼き付けておきたい」「心配だから駆けつけただけだ」など、各々見物する理由はあるのでしょうが、普通に当事者たちの心境を察すれば、そんな行動には至らないと思います。自分の行動によって相手がどんな気持ちになるか?今回の被災で近隣住民の温かさが感じられた反面、災害ゴミの回収に乗じての不法投棄など、嫌な思いもたくさん経験しました。自分が100%できているわけではありませんが、人の気持ちを考えて行動するようにしたいとあらためて思います。

 

 

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自然の再現や模倣の限界?

 

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 自然を模倣したデザイン。本物を再現したモノ。そういった製品や空間がありますが、あるデザイナーさんが「それは無理だ」はっきり言っていました。無理というのはできないという意味ではなく、模倣や再現ができても、本物には絶対かなわないという意味です。

 

とりわけ自然を意識したデザインは、着眼点として素晴らしいですし、美しさや感性の部分を表現したモノは、共感を得やすいと思います。でも、そのまま要素をかいつまんで表現したり、別の何かに置き換えて表現しても、やっぱり本物の方がいい!となってしまいます。そのデザイナーさんが言っていたのは、自然との関わり方を考えたデザインであるべきだということ。例を挙げるなら、自然の美しさを引き立てるデザインであったり、その環境に溶け込むデザインです。自然素材を使うとしたら、その素材を使ったら新しい!おもしろい!よりも、その素材を使うべき理由を持ち合わせていたり、その素材が魅力的に見えるデザイン。自然を模倣した美しいデザインは世の中にたくさんあって、それが素晴らしいことではあるんですが、本物より劣っているとしたら、その存在意義を問われてしまうかもしれません。

 

 

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何回も悩まない?

 

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 皆さんは、何回も同じものを見ているうちに、それが本当に良いのか分からなくなってしまうことはありませんか?悩んで何回も見ることは決してわるいことではないのですが、自身の判断がだんだん鈍っていくというデメリットがあります。

 

はじめに見たときは、あんまり良いと思わなかったはずなのに、見続けていたら「結構いいんじゃない♪」となる。逆もあって、デザインの検討などでふるいにかけて残したものを、その後もずっと見ていると「あれっそんなに良くないかも… 」となってしまったりもします。いずれにしても、プレーンな状態でスパッと判断できたことが、何回も見続けて曖昧になったりするわけです。「何回見ても、良いと思えるものこそ、本当に良いものだ!」という意見は大賛成なんですが、普段の選択では、本当に良いものを選ぶことばかりではありません。候補の中で一番良いものを選んだり、限られた時間の中で判断するといったことがほとんど。そして、目一杯時間を使っても、素早く決断しても、結果が変わらないことが多いのも実際のところです。真面目な人ほどじっくり検討してしまいますが、素に近い状態で判断できると思って何回も悩まないようにしてみてはいかがでしょう。

 

 

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イマイチな理由は微妙な矛盾?

 

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 あるバラエティー番組で、後輩芸人が先輩の暴露をするという企画をやったところ、視聴者の反応がイマイチだったそうです。その後の反省で分かったことは、気付きづらい微妙な矛盾。具体的には、どうして後輩が怒られると分かっていて、わざわざ先輩の暴露をする必要があるのか?です。

 

敏腕スタッフが同じような企画を作るときには、必ずそういった矛盾をなくすそう。例えば前述の例なら、後輩が暴露をして何かのミッションに成功したら100万円もらえる、というふうにする。怒られてでも暴露する理由があるので、視聴者は違和感を抱かないわけです。これは、会社でもお店でも同じことで、「私たちは〇〇を目指します!」と言っていながら、その指針とは相反する行動をしていたりします。それが些細なことでも、見ている人は敏感に反応する。違和感を抱かれないようにするには、その矛盾を無くさなければいけないのですが、そこに気付いている人は結構少ない…。微妙な矛盾を無くす。そうすれば、今まであまり深く踏み込んできてくれなかった人たちも、もっと近づいてきてくれるはずです。

 

 

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部分シェアでハードルを下げる?

 

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 商業施設などにあるフードコートは本当によくできているなとあらためて思います。座席をシェアすれば、スペースは厨房とカウンターだけよく、いつもどこかしらのお店を利用したお客さんで賑わっているし、選択肢も多いので集客もしやすい。賢い方法です。

 

自分たちで所有しようとすることで高くなっているハードルが、シェアを取り入れることで、いとも簡単に低くなる。そうすれば、住もうと思えば都心のど真ん中にだって住めるし、自分の仕事場だって持つことができます。それでもシェアを受け入れられないのは、微妙に手が届きそうだから。どうやったって手が届かないものは、私たちはシェアしていますが、最近は車から自転車まで、手の届くものでもシェアを選ぶようになっていますよね。他人と共有したくないという考えもありますが、共有したいところだけシェアをして、したくないところは共有しないというシェアもあります。やりたいことや使いたいモノがたくさんあってできないと思っている人は、シェアとう選択肢を候補に入れてみるだけで、実現できるようになるかもしれません。

 

 

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抽象的なお願いの仕方?

 

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 ラーメン屋さんは、ごく一部のお客さんを除けば、ほとんどの人はラーメンを食べてすぐにお店を出ます。「食べ終わったらすぐに帰ってください」なんて書いてありませんが、経験とその場の空気で分かるので必要ないわけです。日本人だからこその行動だと思います。

 

先日立ち寄った喫茶店には、「ご利用は2時間までとさせていただきます」との注意書きがありました。もともとそんなに長居する予定ではなかったのですが、あまりよい気持ちにはなれず…。また別の喫茶店には、「勉強や仕事での長時間のご利用はお控えください」とあり、まだその方が受け止めやすいなぁと感じました。「長時間」は人によって捉え方はちがうけど、それも常識の範囲で分かるから抽象的な表現でOK。お客さんの回転率を高めたいのはどこの喫茶店も同じだけど、それを強制で行うのか半強制で行うのかは大きな違い。ラーメン屋さんのように空気を感じて行動できるお客さんばかりなら、きっと本当はそんな注意書きなんて出したくないはずです。だから、抽象的な注意がちょうどよいのかもしれません。混んでいたら気をきかせて早めに出たり、空いていたらちょっと長居するぐらいの人ばかりだったら必要ないんですけどね。

 

 

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消去法で選んでいないと爽快?

 

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 普段、何かの選択をする際、「う~ん、この中なら…」と消去法で選ぶことがあります。それでも、実際に行けば楽しいし、食べたら美味しい。でも、それが「ここに行きたい!」「あれを食べたい!」と他と比較することなく選んだものなら、もっと楽しいし、美味しいはずだと思っています。

 

比較しないで選ぶと良い点はいくつかありますが、1つは「あっちにしておけばよかった…」と後悔することがない点。後から他を見て後悔することはあっても、少なくともそれをい選んだ瞬間は、そういった後悔はありません。もう1つは、良し悪しで選んでいない点。それが今の自分にとって一番良いと思って選んだものなので、それよりも良いものがあるけど選んだときとは受ける印象が大きく変わります。そして何より爽快な気分。「これだ!」と思って選んだので、自分が良いと思った以外の影響がその選択には入ってきていません。だから、素直に楽しめる。仕事などでは大抵のことは比較して選ぶことがほとんどですが、プライベードのときぐらいは、比較せずに選んでみたほうがより楽しめるかもしれません。

 

 

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その質問はされたばかり?

 

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 雑誌などの取材。何度も取材を受ける人は同じ質問ばかりされて、回を重ねるごとに飽きていくそうです。なので、上手なインタビュアーは他の記者の質問と被らないうようにズラして質問をする。もちろん聞かなきゃいけない内容もありますが、極力楽しく語ってもらえるように質問を変えているそうです。

 

仕事の合間の雑談なんかでも同じで、相手に楽しく語らせるのが上手な人は、その相手が普段よく聞かれるような質問は避けます。代表的な作品があれば、その作品について聞きそうなところを他の作品について質問したり、これからどんな作品を作りたいかを聞く。作ったきっかけやその後の環境の変化などのありきたりのものは、何度も聞かれているからです。著名人の取材のようなものではありませんが、私もごく稀に興味を持ってもらえて質問されることがありますが、その時によく聞かれる内容ではないところを突かれると、嬉しくなってベラベラ話してしまいます。それはきっと、ズラして質問してきたことよりも、自分について少なからず予習をしてきてくれていることが嬉しいから。相手がどんな質問をされたら嬉しいか?に焦点を当てて質問してみるのも1つです。

 

 

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前提をあらためてみる?

 

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 広告をデザインする際、これまでは見てもらえないことを前提としていることが多かったのですが、最近は少し変わりました。見てくれる人を対象にすることが多くなったんです。情報過多の時代、半ば無理やり関心のない人に見てもらうよりも、関心を持ってくれている人にしっかりと伝えることを重視する。前提が少しずつ変わってきています。

 

先日、駅のホームのポスターをじっくりと見て、メモをとっている人を見かけました。そのポスターは特別目立つ表現でもなかったし、強いキャッチコピーも使ってない。でも、イベントの情報が少し大きめの文字で丁寧に記載されていました。注意書きもきちんと読めるぐらい。そのポスターの隣には、奇抜なポスターが…。私はその光景を見て、伝えるとはどういうことなのかをあらためて考えさせられました。関心の低い、もしくな全く関心のない人に見てもらうことを狙った広告が効果を発揮していないわけではないし、そこを狙っていかなければならないことがほとんど。でも、内容によっては関心を持ってくれる人に伝わればよいものもあります。前提を見つめなおすだけで、表現はガラリと変わります。

 

 

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技術力に目が向く?

 

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「この撮影は高度な技術が使われているなぁ~」「この印刷は、実はとても手間がかかっていて機械だけじゃできないんだよ」作品などを見て、そこに費やされた技術力や労力に目が向いてしまうことがあります。専門家や同業者に限らず、関わりの薄い人でも同じように感じることがあるのではないでしょうか。

 

技術力や労力を褒められるようではダメだと昔よく言われましたが、確かにその通りで作品の内容より気になってしまう点で、その作品は伝える力が弱いと言い換えられるからです。以前、作品をとても褒められて調子に乗ってしまったことがあったんですが、その様子を見ていた先輩に、「ダメ出しされてるんだよ」と叱られました。褒められていた言葉はどれも「これ作るの大変だってでしょう?」「よくここまでやったね~」などの手間の部分。努力賞といったところです。技術者や研究者の方たちは褒められてしかりの部分ですが、中身で勝負しなければいけない人たちは、注目されるところがそこではダメ。何かで褒められたとき、はじめの一言がどこかによって、自分の作品が伝わるものになっていたかがすぐに分かります。

 

 

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それ一辺倒になる?

 

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 偉人の名言や著名人の一言に影響されて、その考え方一辺倒になってしまうことがあります。若い頃なんかは1つの考え方に没頭することで得られる学びも多いので決してわるいことではないし、それが自分にぴったり合っているなら全く問題ありません。ただ、それが合っているかを判断できるまでに、いろんな考え方を知っておく必要もあります。

 

プロスポーツ選手を例に挙げると、一流になればなるほど、いろんな練習方法を試している印象があります。決まった練習方法だけでずっと続けている選手はきっとほとんどいません。自分に合った練習方法なんてないと言うベテラン選手がいるぐらいなので、きっと次々と知らない練習方法を試して模索しているのだと思います。練習方法は時代とともに進化するものなので、考え方の話と比較はできないかもしれませんが、考え方だって進化しています。偉人の名言は、確かになるほど~と思う言葉が多い反面、今の時代では少し捉えづらい考え方だったりする。それを現代に置き換えて考えられる人もいますが、その人はきっといろんな考え方に触れてきた人。でないと置き換えることも、自分でしっかり消化することもできないと思っています。

 

 

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誇示し続けて確立する?

 

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 あの人はいつも考えを曲げない。自分の都合を最優先する。主導権を取りたがる。…どれも一緒に何かに取り組むにはやりづい感じがします。そう言う私自身もそう行った人が苦手でいつも苦労するんですが、そうやってスタイルを誇示し続けるのは決してダメなことではなく、むしろ賢いとすら思っています。

 

例えば、意見を曲げない人。この人は曲げないと思われるようになると、周囲はそれを受け入れるようになるか、分かっていてみもぶつかっていくか、もしくは毎回不快な思いをしています。いずれにしても、周囲はその人のキャラクターを踏まえた言動をしてしまっている。そして、その人は自身がやりやすい環境になっているので、結果に自身のブランディングに成功しているというわけです。「この人は圧力をかけてくるなぁ…」「いつも自分の力を誇示しようとする!」と感じる人は、一見周囲のことを無視しているようですが、実は結構考えてわざとそうしていたりします。そうしないと淘汰されてしまう世界もあるので、それは致し方ないことでもあるし、ある世界では正攻法でもあるように思います。そのやり方が好きか嫌いかは抜きにして。

 

 

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裏側を知って楽しもうとする?

 

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 最近のバラエティー番組では、売れているお笑い芸人さんが、どうしてこの人は面白いのかを解説したり、どういったポイントがプロをうならせるのかを語ったりすることが多くなりました。今まで表に出さなかったことを出すようになっている…。

 

その背景には、知った上で楽しみたいという風潮があるからだという記事を読みました。わるく言うと、良さを教えてもらわないと楽しめないというわけです。その要望に対して前述のような企画を放送しているのですが、本来それを見せる必要はないと思っています。プロと同じ目線で見る必要はないし、その目線で見たらきっとそこからズレた目では見れないし、何より楽しめない。デザインのコンペでも、最近は選んだ理由を公表する傾向があります。コンペ自体の信頼を保つためだったり、落選した人たちに納得してもらうためだったりするようですが、評価のポイントは本人が直接聞くぐらいでよくて、公表は必要のないこと。公表すると、次回そのポイントに合わせた作品をつくって応募してくる人が増えるばかりで、豊かな発想を持った作品がどんどん減っていくように思います。ここを評価する!と言われたら、そこを高めようとしてしまうものです。

 

 

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