デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

決まっていることに色付け?

 

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 私のもとにくるデザインの依頼はだいたい2通りです。「決まっていることをカタチにしてほしい」か「決まっていないことをカタチにしてほしい」かのいずれか。ずっとその両方をやってきたこともあって、どちらも何とか対応できていますが、前者の対応については当初苦労しました。

 

決まっていることに色を付けない。ここで言う色は、その人の価値観や趣味嗜好の話です。細かなところまで決定されていて、それをカタチにする依頼の場合、私は自分の価値観や趣味嗜好を入れません。別の言い方をすると、自分の考えを入れない。依頼に忠実にカタチにします。ただ私は当初、そういった依頼に対しても自身の考えを加えていました。それまで自分で考えて提案することを求められてきたこともあり、「自分に依頼をする=私の考えを求めている」と勘違いしていたからです。一方で、考えを求められる依頼の場合に自身の考えを入れない(入れられない)というケースも目にしてきました。それまで、指示に基づいて忠実にカタチにすることだけをやってきた人のケースです。どちらか一方のパターンで仕事をし続けていると、もう一方にきちんと対応できない。偏った仕事の仕方をしていると感じたら、たまにはもう一方のやり方に取り組んでみてもよいかもしれません。

 

 

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いつまで経ってもやり切れない?

 

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「やり切れる分だけやっているなら、それほど楽なことはない。そうしていたら、いつまで経ってもやり切れないし、そもそも丁度いい分だけやるなら仕事ではない。どうすればやり切れるかを考えて行動しなさい!」若い頃、そう教えられました。

 

やり切れない状況に直面したとき、リアクションは大きく2通り。「やり切れません」とギブアップする人と、どうしたらやり切れるかを考えて行動(相談)をする人です。前者は、いつまで経っても対応できる範囲が変わりません。しかし後者は、やり切れなかったことがいつの間にかやり切れるようになり、それを繰り返してどんどん成長していきます。作業スピードではなく、対応力?アドリブ力?といったところでしょうか。周囲や外部を頼って間に合わせる。やり方を変えて対応する。やり切れない内容の中には物理的に不可能なこともありますが、どうにかできることもあります。パワハラのようなことを言っていますが、「余裕を持ってやれる分だけやればいい」なんていうのは大手企業ぐらいの話。中小企業で一度でも経営職・管理職の立場に立ったら、そんなことはきっと言えなくなるはずです。

 

 

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育てたスキルが活きるのはその環境だけ?

 

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 誰かに育ててもらったスキルは、その環境では力を発揮するものの、他の環境では十分に発揮できていません。でも、自分で育てたスキルは、環境が変わっても通用している感覚があります。あくまで私の経験に限った感覚の話です。

 

いろんな会社で教育に対しての話を耳にしますが、そこでは新人スタッフからの「もっと寄り添ってほしい(育ててほしい)」という声と、指導する立場のスタッフからの「どう接するべきか?(育てるべきか?)」という声があります。どちらも“育てる”という視点。それが正しいとか間違っているとか言うつもりはありませんが、“育つ”という視点に変えてみてはどうかと思うことがあります。現場の声を言い換えるなら、「もっと(私が)育つようにしてほしい」「(部下が)育つために自分ができることは何か?」。自分が今も身になっているスキルは、決して自分だけで育てたとは思っていません。でも、そこには育ててもらったという感覚もありません。自分で育つ環境を私に分からないように整えてもらったという感覚です。もし「育てる」「育ててもらう」のがうまくいかなかったら、少し視点を変えてみてはいかがでしょう。

 

 

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言葉が見る目を変えてしまう?

 

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 セリフやナレーション、テロップなどの言葉のない動画。そして、その動画で紹介されている商品の実物。その2つがあるだけで、商品の特徴が伝わり、好奇心を掻き立てることができる。最近、そんな機会に触れました。詳しい説明を言葉で伝えなくても、しっかりと伝わる表現はできます。

 

私は文章が苦手だったので、言葉で伝えることを少しずつですが学んでいます。だから、決して言葉で伝えることが不必要だなんて思っていません。ただ、その“言葉”が、見る目を濁らせてしまうことも時にはあります。学生時代、課題でつくった作品をみんなの前でプレゼンする授業がありました。同じ研究室には、とてもプレゼンの上手な人がいたのですが、その人の作品にみんなが興味を持つものの、先生の評価は厳しかったのをよく覚えています。その人に話を聞くと、のちに先生からこう言われたそう。「あなたはプレゼンが上手いから周囲が好印象を抱いてくれるけど、それは作品に対する素直な評価ではないよ」…。どこが良いのか分からない絵画について、それが有名な画家が描いたものだと言われた途端、見る目が変わってしまうようなもの。たまには言葉を使わずに伝えることも試してみた方がよいかもしれません。

 

 

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周りを下げて引き立てるは間違い?

 

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 私はつい数年前まで、一番見て欲しいことを引き立てる際に、それ以外を目立たないようにする手法をとってきました。そうすれば単純に一番目立つからです。しかし、その手法には大きな欠点があります。それは、それが持っているポテンシャル以上にはならない点。「魅力を引き出す」「持っている力以上のことを伝える」が出来ないんです。

 

先日ある人に勧められ、一幕だけですが初めて歌舞伎を観ました。分からない部分もありましたが、終始、主役の演技に魅了され、とても良い刺激を受けることができました。そこで感じたのは、周囲にはとても強い存在感があること。当然、主役を引き立ててはいるんですが、決して自分たちを地味に演じているわけではありませんでした。実際のところは分からず完全に素人意見ですが、周囲の強いチカラに負けないように主役がさらに強いチカラを発している感じ。主役の人ばかりに目がいってしまっていても、目立つように周囲が存在感を消しているわけではない。「魅力を引き出す」には、周りが強いから引き出されるということも多々あります。今後、展示物を引き立てる演出等、空間コーディネートの仕事もあるので、そのあたりも踏まえてじっくり考えたいと思います。

 

 

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たまたま注目されたのがソコ?

 

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 何かをきっかけに世間から注目された人を見て「ラッキーだな~」なんて思ってしまうのは、その人がそのきっかけになったことだけに取り組んでいたように見えるから。実際にそんなことはなく、いろんなことに取り組んでいて、たまたまある1つが注目されただけというケースがほとんどです。

 

そして、そのきっかけで注目されることを本人が自ら望んでいたわけではない場合もります。本当は別のことを見て欲しかったかもしれない。だから、注目を集めたからといって、それはラッキーでもなければ、希望通りに上手くいったわけでもないと思っています。成功した人はその何倍も失敗してきているし、自分がやりたいことが出来ている人も、別の何かに注目してもらえたことをきっかけに自らやりたいことができるように道を切り開いていっただけ。注目してもらえないと嘆いている人に目を向けると、自分が注目されたいポイントでしか勝負をしていない印象があります。もちろん、そこが注目されればそれに越したことはないのですが、そんなに簡単に注目してはもらえません。手広く何かをやったり、少しずついろんな分野をかじることに意味を見出せないかもしれませんが、それでもそこが注目される可能性は0ではありません。

 

 

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自分ができることには辛口?

 

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 自分でやったら1時間でできること。その仕事を他の誰かが3時間かけていたら、遅いと感じてしまいます。一方で自分ではできない仕事。その仕事を3時間かけてやった人がいても、かかった時間に不満を言う人はほとんどいません。

 

自分が出来ること、正確に言うと出来そうなことには辛口評価という印象があります。例えば、クイズ番組で間違えるわけがないところで間違えている回答者を観ると、「なんでそんなの答えられないんだ!」と思う。でも、難題に対して正解できなくても、仕方がないなと思います。自分に置き換えて他人を評価するから。ただそういうタイプの人は、いざ自分がその立場になったら、出来ると思っていたことが出来ないことも往々にしてあります。自分に置き換えて評価しない。私もつい「なんでそんなに時間がかかるの!」と思ってしまうことがありますが、それは自分を過大評価しすぎているからです。同じような内容で、それまでは1時間で出来たことだったとしても、今回も1時間で出来るとは限りません。「もう1人自分がいたら、もっと仕事が捗るのになぁ」なんて思ったら、自分に置き換えて評価してはいけない!を思い出してみてください。

 

 

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私の中の成功と失敗?

 

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 普段、デザインをしていて「失敗だったな…」と反省することになる明確な基準が私にはあります。それは、そのデザインが機能しなかったとき。私が仕事でデザインする多くは、目的を果たすための手段の1つとして選択しているからです。

 

簡単な例で言うと、広告。素晴らしいポスターが出来上がり、それがどんなに好評だったとしても、その広告によって商品が売れたりブランド力がアップしたりしなければ失敗。逆に、評判がわるかったとしても、その広告によってたくさん商品が売れたら、そのデザインは成功ということです。以前、展示会の空間演出に携わったときの話ですが、展示会に訪れた人に後日感想を聞くと、ほとんどの人はどんな展示だったか覚えていませんでした。でも、どんな展示内容だったかをほとんどの人が覚えていたんです。これは、私にとって成功だと思っています。多くの場合、私のデザインは強い特徴を持たないことが多いので、私自身のことはほとんど覚えてもらうことはありません。ただ、そんなふうに目的に近づけると覚えていただけたりするので、少しずつ成功を増やしていきたいと思っています。

 

 

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やってみて興味が湧く?

 

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 以前、展示会の空間づくりに携わった職人さんから、自身のお店で商品を展示する什器の制作を依頼されました。「お店の中に突然、自然が現れた!!そんな什器がいいですね♪」それから一度模型を作ってイメージを共有し、制作した什器を納品してきました。

 

その什器は、商品の展示スペースがリアルな岩場になったもの。アクリル絵具を何層にも塗り分けて、苔を生やしたり、濡れた質感をボンドやニスで再現したりと、ジオラマを作る感覚で制作しました。説明しなくても、直感的に「アウトドアで使う商品」だと分かるようにと考えていたので、その通りの仕上がりになってとて嬉しい限りです。それはさておき、ジオラマ制作に近いことをやってみて、ジオラマにとても興味が湧きました。子供の頃から電車が好きで、いつか自分で考えて作ったジオラマの中に鉄道模型Nゲージなどを走らせたい!と思っていましたが、ジオラマに触れたことはありませんでした。でも、今回の什器制作で触れてみて、あらためて興味が湧いて…。やってみて興味が湧く。知っているだけではそれ以上踏み込まないものでも、触れると途端に興味がわくことは珍しくないかもしれません。

 

 

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写真は加工してはいけない?

 

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 新しい五千円札に起用された津田梅子さんの肖像画が左右反転されているというニュース。疑いの段階ではあるものの、デザイン関係者は敏感に反応しているようで、私の好きなデザイナーも、写真を加工することについて警鐘を鳴らしていました。

 

写真は加工してはいけない。学生時代から幾度となく叩き込まれたことです。1つは、存在しているものを存在していないものに変えてしまうから。人物であれば、左右を反転した写真は本人ではありません。鏡で見た自分は、他人から見えている姿ではないのと同じ。もう1つは、撮影したカメラマンの作品に手を加えることになるからで、他人の作品を勝手に改変するなどもってのほかということです。しつこいようですが、写真は加工してはいけない。とはいえ、恥ずかしい話ですが私は仕事の上で加工をすることが多々あります。細部を補正したり、きれいに見えるように色を立たせたり…。ただ、1つだけ絶対にやらないと決めているのは反転。人物に限らず、モノでも景色でも、反転はしない。それは全く別モノだから。それを徹底していることもあって、今回のニュースはつい注目してしまいました。

 

 

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目先の結果を求めた代償?

 

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 あるチェーン店で食事をしていると、店員さんがアンケートを頼んできました。タイミングわるく、話が盛り上がっていたところ。説明を5分近くされ、書くまでその場を離れてくれませんでした。とても熱心で真面目そうな店員さん。アンケートを書いてほしいという気持ちは伝わりましたが、正直また来たいとは思えませんでした。

 

お店としては、結果的にアンケートを取得できてOK。取得目標も達成できたのかもしれません。ただ、私はまた行きたいという気持ちになれませんでした。普段、仕事をしていると、つい目先の結果を求めてしまうことが多々あります。しかし、その結果を求めたことで、その先の結果が達成できないことも…。もちろん結果の求め方にもよりますが。目先の結果を求めた代償は少なからず生まれます。今月の売上は、セールを実施すれば達成できても、来月の売上は達成しづらい。またセールを行えば達成できるかもしれませんが、ブランドイメージはわるくなる一方です。当然、今を乗り切るための施策は必要ですが、それが先々のマイナスを含んでいる施策である場合も。一度立ち止まって、本当に今やるべきことなのか?を考え直した方がよいケースもあります。

 

 

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いきなり清書する?

 

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 この前観ていたテレビ番組で、冒頭だけ書かれた文章の後ろの部分を考えるというお題をパネラーに投げかけていました。その時の様子を観察していると、ある人はう~んと考えはじめ、ある人はボードの裏側に下書きをしていて、またある人はいきなり表に答えを書きはじめました。

 

三者三様でおもしろいなと思って観ていたんですが、ふと「自分だったら、いきなり答えを書きはじめるという選択はしていないな…」と。考えてから答えを出す方法しか選んでいなかったことに気付きました。その番組では、一番ユーモアのある答えだったのがいきなり書いた人だったこともあり、じっくり考えずに答えを出すことも、それはそれで魅力があるなと感じました。似ているなと思ったのは、習字。何度も練習してから書く字は整っていてきれいですが、何かチカラがない感じがします。一方で、練習せずに勢いで書いた字は、荒っぽいところはありつつも想いがこもった印象で、強いメッセージがある感じ。私は以前、デザインにチカラが無いと指摘を受けたことがあるんですが、それは考えすぎているからだったのかもしれません。早速、仕事ではないところで一度「いきなり書く」を試してみたいと思います。

 

 

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あなたの商品は私にとってのアート?

 

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 デザインの話をしているとよくテーマになる“デザインとアートのちがい”。先日、似たような話をしていたときに、腑に落ちた考え方が1つありました。それは、商品と美術品についてのちがい。見た人が美術品だと受け取れば、それはその人にとって美術品。商品だと思ったら、それは商品だという定義です。

 

例えば、デザイナーのフィリップスタルクが作った「ジューシーサリフ」という有名なレモン絞り器があります(気になる人は調べてみてください!)。これはレモンを絞るための商品です。しかし、その美しいフォルムもあって、特に日本ではインテリアとして飾っている人がたくさんいます。その人たちにとっては美術品というわけです。一般的に私たちが思い描くような絵画や彫刻などの美術品だって、それを売買する人たちにとっては商品。絵を売って生計を立てている人にとっては商品だし、購入するお客さんにとっては美術品です。もちろんこれは考え方の1つですが、商品をつくっている私にとっては、この定義が一番しっくりきました。どんなふうに境界線を引いても、そうではないと考える人が必ずいますからね。

 

 

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新素材にチャレンジ?

 

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 ある職人さんに依頼されて、商品を展示する什器を作ることになり、試行錯誤しながら現在製作しています。そこで、どんな素材で作るか考えつつ調べていたら、これまで使ったことのない素材が見つかり、半信半疑ながら一部分をその素材で作ることにしました。

 

「木粉ねんど(ウッドフォルモ)」と呼ばれる素材で、間伐材や鉛筆の削りカスを原料とした粘土。柔らかくて軽量で扱いやすく、造形しやすいのが特徴で、乾燥後に耐水ニスなどを塗れば、ある程度の強度も確保できる素材です。はじめは、自分がこれまでに試した安心の方法を使おうとしていました。発泡スチロールでラフに造形して、表面に石膏のような素材を盛り付ける方法です。でも、新しい方法を使ってみました。良さを知っている使いなれた方法と知らない未知の方法。失敗できない状況だと、私はこれまで使いなれた方法を選んでいましたが、ここ数年は新しい方法をできるだけ試すようにしています。自分が慣れた方法は最善の策ではない可能性が大いにあるからです。試したことのない方法は不安もありますが、試さないことには今まで選んでいる方法が良いかどうかも分かりませんからね。どんな什器を作ったかは、また後日紹介させていただけたらと思います。

 

 

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