デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

みんな“さん”付け?

 

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 いつからか周囲の人たちに対して、年下だろうと後輩だろうと、分け隔てなく「さん」付けで呼ぶようになりました。「君」や「ちゃん」といった呼び方はしません。1つの理由は、自分がそう呼ばれるのを好まないから。すごく年の離れた大先輩から「君」付けで呼ばれるといった例外をのぞけば、年の近い人からそう呼ばれた時点で距離をとるぐらいです。

 

もう1つは、(無意識に)相手に対してマウントを取りたい人が「君」や「ちゃん」を付けて呼ぶ傾向があるという調査結果をある記事で読んだから。これはとても納得できる結果で、周囲でそう呼んでいる人たちをよくよく観察してみると、偏見ではありますが、確かに相手より上に立とうとする傾向があったように思います。「仕事の姿勢や結果でそうすればいいのに…」といつも感じていました。「君」や「ちゃん」付けで呼ぶことを、打ち解けたくて使っている人もいると思いますし、親しみを持ってそう呼んでいるだけで意図はないという人がほとんどだと思います。ただ、そう呼ばれて嫌な人もいるし、そんな些細なことでダサいなと思う人もいる。単純に、相手に敬意を払って接すると考えたら、少なくても「ちゃん」は使いません。あくまで仕事上の話です。

 

 

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期待通りにやる?

 

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 私はデザインの仕事をしています。ご依頼いただく内容は大きく分けて2つ。相手の希望通りのものをつくる場合と、私に一部を委ねていただく場合です。ただ、期待をされているという意味では、どちらも期待通りのものをつくらなければいけません。

 

プロの仕事として、期待通りに応えることは最も重要なことだと捉えています。しかし、クリエイターという人たちは勝手なもので、その期待から外れたもので納得させようとしたりする。結果的に通らないと、相手の価値観などを言い訳にしたりしてしまうことも…。でも、周囲を見てみると、自分が通したいアイデアやデザインですんなり通ってしまっている人がいたりします。きっと、そういう人を見て自分もそうしたいと思ってしまうのでしょうが、実際その人たちは期待通りにやっています。それは、相手の期待を事前に変えているから。打ち合わせの場で、期待されるポイントをプレゼンで変えているわけです。だから、自分がこれがベスト!と思うものを自信を持って相手に渡すことができる。期待通りに対応すると聞くと、「言いなりになりたくない」といった声も上がるかもしれませんが、相手の期待を変えられたら、それは自分たちの“期待通り”に変わるはずです。

 

 

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丁寧に終えられる人?

 

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「この人は信頼できるな~」と心から思えたことがこれまで何度かあるんですが、その中の一例として、丁寧に終えられる人というのがあります。雑に扱わないのはもちろん、必要最低限のことだけやって終わろうとはしません。はじめたときと同じ熱量で最後まで接する人です。

 

例えば、場所を借りてイベントを行う。無理を言ってなんとか貸してもらった場所で、滞りなくイベントを終えたその後の行動が信頼を左します。ある人は、ゴミを置いて貸主に挨拶もせず帰っていきますが、別のある人は、しっかりと掃除までしてお世話になった人全員に挨拶をして帰ります。それは規約や契約書にはないので、やる必要はないことなのかもしれません。でも、そこで丁寧に対応できる人が私は信頼できます。サービスを停止するとき。契約を終了するとき。従業員が退職するとき。…いずれもモチベーションを高く持って相手と接することができるとは言い難い。でも、はじめるときは期待に胸を膨らませて一生懸命にやるのに、終わるときには最低限、というのはどこか気持ちわるいと感じてしまいます。丁寧に終えられる人。先日、私に仕事を依頼できなくなった方が、挨拶とは別にわざわざ手紙を送ってくださいました。そういうことです。

 

 

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白紙にテーマを見つける?

 

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 白い紙を前にして、いざアイデアを考えようとしても全然前に進まない…。課題を示されていても、「社会を良くするアイデア」など漠然としすぎていて、どこから手をつけてよいか分からない…。そうやって、考えることに苦手意識を持つようになっていくという話を聞きました。私も一度その壁にぶつかっています。

 

何もないところから考えはじめられる人もいるのかもしれませんが、ほとんどの人はそれができないと思っています。どうやって考えているかというと、課題や条件を自分で設定している。仮に前述の「社会を良くするアイデア」だったら、「社会が抱える介護の問題について地域ができること」とするだけで、グッと考えやすくなります。課題を明確にしたり自分で条件をつける力を、私は勝手に「見つける力」と呼んでいますが、企画力のある人は、その「見つける力」が高い。はじめは無作為に設定してもよいと思いますが、続けていると、漠然とした投げかけに隠れた本当の課題が見つけられるようになっていきます。それが見つけられたら、それはきっと素晴らしいアイデアになるはず。私の肌感では、手段を考える人はたくさんいますが、課題を見つけられる人はまだまだ少ない印象です。

 

 

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境界をつくらない?

 

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 これまで育った環境の影響もあり、いろんなことに対してあまり境界をつくっていません。一般的に区別されているような業種や分野でも、それぞれ関わり合っているし、手段が異なるだけでやっていることは同じだったりします。それは、物事に対しても同じ。

 

私はデザインの仕事に長く携わっていますが、人によっては私を「プロダクトの人」「グラフィックの人」と線を引きますし、グラフィックの中でも「紙の人」「Webの人」と区切る人もいます。でも、私には境界がありません。そこで求められる表現や考え方、環境が異なるだけ。先日も、「デザインがモノからコトに…」といった消費の目的の変化が書かれた記事に対して、「モノのデザインが大事だ!」「コトを重視するべき!」といったコメントが寄せられていましたが、どうしてそこで線引きするのかが分かりませんでした。そもそもモノのデザインはコトを多かれ少なかれ含んでいるし、コトのためにはモノに魅力がなければいけない。「どちらが〇〇」はありません。専門性を持つことも、分けて考えることも大事なことではありますが、あまり境界をつくり過ぎると、思考が狭くなってしまうような気がします。

 

 

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肌感覚が分からない?

 

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 打ち合わせや会議など、リモートで行うことがごくごく普通のことになってきて、対面する必要がないかのような風潮を感じます。内容のやりとりはできるし、相手の顔を見ながら話ができるから問題ない…。私はそれでも、対面を必要と考えています。それは、肌感覚が分からないからです。

 

正直なところ、私はそれで成立する仕事であれば出社しなくてもよいと考えています。ただ、リモートでは分からないこともあって、私の場合はそこを重要視しているので、できる限り対面して話をするようにしてきました。表現が難しいのですが、その場の空気感、熱量、表情、間(ま)、ニュアンスなど、繊細な部分を感じ取れるのと取れないのとでは、考えるための材料が足りないのです。受け手の質問力や感受性、相手の伝達技術の高さがあれば、たとえメールでもはっきりとその繊細な部分が汲み取れる場合も確かにありますが、すべての人がそうではありません。特に、抽象的なイメージを汲み取る際などは、リモートでは難しい。あくまで私の話ではありますが、「どうしてわざわざ直接打ち合わせをする必要があるの?」と思う人は、きっと具体的に示された情報だけを頼りにしているのではないでしょうか。

 

 

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大抵は上手くいかない?

 

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 こんなことを言うと信用を失ってしまうかもしれませんが、私がやっていることの大半は上手くいかないことがほとんどです。スムーズに事が運ぶことは、まずありません。メンタルが弱いので、頭を悩ませる問題や不採用に直面しては凹んでいます。それもあって、上手くいったときは年甲斐もなく飛び跳ねて喜んでいます。

 

上手くいかないことにフラストレーションを感じることは皆さんもあると思いますが、そこに対して、「上手くいくはず」と考えるか「基本的には上手くいかないもの」と考えるかで、行動が変わってきます。私は後者の考え。もちろん、自信を持って大いに期待してチャレンジすることが前提ですが、後者の考えの場合、つまずいてもすぐに「じゃあこうしてみよう!」と切り替えることができます。前者の場合は、上手くいかない要因に対してストレスを感じたり、他責思考になってしまったりする。次につまずかないように原因を洗い出して解決していくことは必要ですが、そこに囚われすぎていては、前に進むまで時間がかかってしまいます。「せっかくこの予定で進めようとしていたのに…」と思うこともありますが、基本的には上手くいかないものだと、肩の力を抜いて向き合うようにしています。

 

 

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王道が難しいから変化球?

 

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「今回は、珍しく直球ですね♪」だいぶ前ですが、私の提案にそんなリアクションが返ってきたことがありました。それまで提案していたものが、変わった切り口や手段だったのに対して、その時の提案が王道だったからです。相手の方は、また変わった切り口の提案がくることを期待してくださっていたのかもしれません。

 

意図的に王道ではなく、変化球を狙うことがないとは言いませんが、私は基本的には考え方を変えていません。課題の解決策を模索する中で、捉え方を見直したものがたまたま変化球になったりするだけ。既存の手法で問題なく解決できるものは、その方法で良いと考えます。ただ、前述の方のように、私が期待される多くは、変化球。なぜなら、王道であれば、もっとクオリティの高い提案ができる人が山ほどいるからです。既存の解決策なら、私に頼む必要がないと考えるのはごく自然なこと。それでも、今もお付き合いが続いている方々は、私がどのような提案をしても受け入れてくれています。それはきっと、王道であろうと変化球であろうと、解決するために模索した痕跡が見えるからだと勝手に思っています。王道か変化球かは、ただの結果です。

 

 

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2個以上つくる?

 

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「提案するのは1つでいい」…その考えに私は賛成です。でも、提案を1つしか作らないのは反対。それが最良の案であるかを判断できないまま、その1つを提案するのは相手に対して失礼ですし、何よりそれは怠慢になってしまいます。少なくても、2つ以上は作らないと、良い方を選んで提案することができません。

 

私は昔からたくさん提案を作っていましたが、それをよく思わない人も周囲にはいたように思います。質より量で魅せているように見えたり、数で努力をアピールしているように見えたのかもしれません。それが全くなかったといえば嘘になりますが、数を作る大半の理由は、そうしないとベストが選べなかったからです。1つ作って「これ以上はない!」と自信を持っていてもそれを説明できない。だから、比較して優れている方を選んで残った1つを最有力案として提案していました。経験を重ねた頭の良い人であれば、1つだけ作ったものがベスト案になるのかもしれませんが、私は未だに1つだけ作ることはしていません。昔に比べれば、1つでも納得してもらえるような説明はできるようになりましたが、それでも、それが私が出せる提案のベストであることは説明ができません。

 

 

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商店街か複合施設か?

 

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 個人で仕事をする際の考え方は様々あります。①自分のやりたいようにやるために、他と混同されないようにする人。②チームで動いている人。③仕事を得るために他と協同している人。どれが正しい素晴らしいと言うつもりは毛頭ありませんが、私は今のところ①②③どれもやった方がいいと考えています。

 

お店に例えるなら、①はポツンとある路面店で、②は商店街にあるお店、③は商業施設に入っているお店、でしょうか。①はそれだけを目的にしてくれる人が集まります。②はメンバーの魅力が掛け算されて大きな幅を持った魅力となって人を集め、③は自分に関心のない人を集めることができる。仕事をしていくにはどれも必要だと思います。抜きんでた才能や技術があれば、①だけでも十分成立するかもしれないし、②や③は個性が薄まったりするかもしれない。なら、いずれもやってみてはいかがでしょう。有名ブランドなどが、路面店を構えつつも商業施設にも出店しているのは、きっとそこだと思っています。個人の仕事は難しい。だから、仮に物理的に集合していなくても、長く仕事をしていくためには協力や協同することが必要になってくるような気がします。

 

 

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あるもので作れたら料理上手?

 

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 魅力的な素材を使って、必要なものを全て揃えて、充実した環境で時間に余裕を持って作れば、そこまで技術がなくてもある程度良いものは出来上がります。でも、他の人がその出来上がりを見て、「テクニックがあるな~」「上手だな~」とは思いません。「多少は技術が必要だけど、そうなるだけのモノを揃えているんだから…」となります。芸能人の料理自慢にイマイチ共感できないのは、きっとそのあたり。

 

一方で、私たちが素直に「料理上手だな♪」と共感できるのは、冷蔵庫の残り物でパパッと美味しい料理を作る人。どんな素材や環境でも、足りないモノがあっても作れる人を見て、すごいなと共感します。誤解のないように言うと、完璧な素材と環境で素晴らしい作品を作る人も当然います。ただその人たちは、どんな状況下でも高いクオリティを保てる人たち。でも、まだそこまでではなかったとしたら、〇〇なのにすごい!を1つ示してみると、少し変わるかもしれません。「低コストなのに」「限られた時間しかないのに」「条件が厳しいのに」など、制限のある状態で結果を出すことを積み重ねられたら、きっとその次には、完璧な条件下で作ってほしい!と思ってもらえるような気がします。

 

 

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描けすぎると出来がイマイチ?

 

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 構想段階で欠点が見当たらず、あまりに成立しすぎている“キレイなアイデア”は、実際にカタチにするとそこまで面白くない…。一方で、欠点はあるものの一本か二本強い柱がるアイデアは、カタチにしていく中で欠点を克服したり、別の新たな魅力を手に入れたりして最終的に面白いカタチになる。あくまで私の経験上での話です。

 

うまく表現できませんが、はじめに最終形を完璧に描けていると、あとはそこに向かって進むだけですが、明確な目的やコンセプトはあるもののゴールが曖昧な場合は、進めながら模索していくという過程が生まれます。私はそこの模索の部分がとても大事だと考えていて、最近はスタート段階であえて固めないようにしています。もちろん、上手くいかない場合も多々あります。ただ、その過程で生まれた考えや視点、欠点の解決策が別の新しいアイデアに着想することも。確信を持って進める方が、無駄な時間を費やさなくて済みますし、効率的に作業ができることは間違いありませんが、完璧でない状態で進めることで辿り着くカタチもあります。私はどちらかといえば完璧主義でしたが、今はもう“キレイなアイデア”で展開することが少なくなりました。

 

 

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評価は気にしない?結果は気にする?

 

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 結果が評価されるというのは半分正しいけれど、必ずしもイコールではないと思っています。グルメ情報サイトで星が1つ2つでも、実際は毎日大勢のお客さんで賑わっているお店もたくさんある。サイトの評価は少なからず影響するかもしれませんが、そのお店はしっかりと結果を出しているので、気にする必要は全くありません。

 

「他人の評価を気にする必要はない」「周りとの比較しても仕方ない」といった言葉をよく耳にしますが、そう言われる人には、たぶんストレートにその言葉が入っていないのではないかと思います。きっと、結果を求めるストイックな人ほどそんな感じではないでしょうか。それは、その人の中で、評価と結果が直結しているから。結果を出している人は、そこを切り離して考えているような気がしています。周囲が絶賛してくれても結果が不採用だったり、評判のわるい会社に限って業績が良かったりする。評価は良くても結果が出ていない人もいるし、評価はわるいけど結果を出している人もいるわけです。だから、そこまで評価を気にする必要はない!というのが私の今の考え。そのかわり、結果はとことん気にしています。

 

 

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足りていない?

 

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 10万円の花瓶。それがどんなに高価な材料を使っていて、どんなに手間がかけられていて、どれだけ貴重なものか十二分に理解しても、きっと私は買いません。単純に私にとっては高すぎるから。でも、その花瓶をつくった人の届けたい相手が高所得者であれば、それでよいと思っています。

 

ただ、もしそれを平均的な所得の人たちに届けたいと思っていたら、それは私の中では少し違う。なぜなら、そもそも平均的な所得の人が手にするモノではないからです。素晴らしい工芸品も、高価な食器も、庶民が使っていたわけではありません。それを、単純に価格を安くすればよいと言っているわけではなく、その価格でも購入したいと思えるまで、納得してもらえるまで伝えなければならないということです。「こんなに素晴らしいのにどうして買ってくれないんだろう?」といった悩みを持つ人に対して、どれだけのことをやっているか尋ねると、大抵は「ここまでやってる!」と主張します。事細かに商品について伝えているし、動画も撮ったし、SNSもやっているし、百貨店にも卸しているし…。それで、足りていると思っているうちはきっと届かない。相当難しいことではありますが、ただただ足りるまでやるしかないと思っています。

 

 

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