デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

原因を決めて安心する?

 

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 上手くいかない理由や失敗した原因を突き止めて明らかにするのは、大事なことだと思います。ただ、決めつけてそれで安心してしまったり、本当に考えなければいけないところから目をそらしてしまう可能性があります。それを意図的に他者に向けて使う場合も…。

 

「今抱えている課題が解決しないのは、〇〇の人たちのせいだ!」となったら、“〇〇の人たち”だけに矛先が向いて、そこさえちゃんとしてくれたら解決するといった仮想をしてしまいます。自分たちが攻撃されないように、今こうなっているのは私たちが原因ではありませんよ!と伝えるわけです。そして、私たちは本当にそうだと思って目を向けるべきところを見誤ってしまう。もちろん、それは原因の一端だと思いますが、それだけではない。以前、容疑者が釈放された際の変装が話題になったことがありましたが、事件の内容に世間の目が向かないように、別のところに目を向けさせた意図的なものでした。原因を特定して早期解決を目指したり、上手くいっていないところを改善していくことは、言うまでもなく大事なこと。でも、そこだけを見てはいけないと日々感じています。

 

 

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はやい理由は予備動作?

 

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 交番や案内所で目的の場所を尋ねたら、ほとんどの場合はすぐに答えが返ってきます。対応が早い。でもそれは、スピードが早いわけではありません。「場所を尋ねられるかもしれない」と思って、前もって準備をしているからです。

 

仕事が早いと言われる人も同じで、対応するスピードは周りと大して変わりませんが、準備しているためにスムーズに対応ができます。もちろん、対応するための引き出しが多かったり、経験ですぐに解決策を導き出せたりはすると思います。ただ、それだけではなく、何かしらの準備をしている。時間が掛かってしまう人は、その準備を頼まれたタイミングからはじめるからだと思います。「どんな相談が来るか分からない状態で、準備なんてできない!」といった声もあるかもしれませんが、分からなくても見当をつけることはできます。「私に相談するとしたらこんな内容だろう…」「やったことのないことだったら、こうやって進めようかな♪」「急ぎで対応してほしいときには、こうやって解決しよう!」早い理由は、予備動作。技術や判断力を磨いて対応スピードを上げることも1つですが、準備しておくことで無理なくスピードを上げることができるかもしれません。

 

 

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その人がデザインしたから◯◯?

 

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 このデザインが良いわるいと他人が意見するのは勝手だと思いますが、目にする発言の中には違和感を覚えるものもあります。それは、結果ではなく人に対して矛先が向いているとき。「その人がやったから〇〇」といった内容です。

 

それは確かに、大なり小なり誰でも持っていること。例えば、有名な画家の作品と言われたら、それは素晴らしいものとして観てしまう一方、無名の場合は作品を観て判断します。人が露わになっているほど、人にフォーカスする割合が増えていく。一見良い面ばかりのようですが、人がプラスのイメージだけを持っているとは限りません。人気デザイナーが大衆向けの商品をデザインした場合に、「お金持ちに庶民の感覚が分かるはずがない」といった意見が出るようなもの。利用者の目線でデザインを考えているにも関わらず、残念ながらそう見られてしまうわけです。私は、仕事の多くを公開していません。それは、「どこの馬の骨ともわからないデザイナーが…」と、デザインしたものが歪んで見られてしまうから。成果物の評価が下がってしまったり、依頼主に迷惑が掛かからないよう、仕事面では私がデザインしたことを伏せる機会が多いのが実際のところです。

 

 

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手数が多いほど丸裸?

 

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 シンプルに伝えることができず、長々と説明をしてしまったりすると、相手から「この人で大丈夫かな?」「あまり頭が良くない人だな…」と思われてしまいます。これは私の実体験で、伝えることが苦手だった頃に、後になって聞いた当時の私の印象です。

 

これは対面に限らず、メールでの伝達やSNSでの情報発信なども同じ。量や手数が多いほど、その人が丸裸になっていきます。語れば語るほど力量がバレる。私の場合、すでに頭が良くないのがバレているので、このブログのように毎日やっていることがありますが、頭の回転や表現力・文章力に自信がない人は、手数を増やさない方ことをオススメします。「誤字脱字が多いな…」「急に周りに合わせてきたな…」「このタイミングでそんなことを言うのか…」手数が多いほど、比較対象が増えますし、たった1回のミスでそのイメージがついてしまいます。「たくさん語ってくれた方が、人柄が分かって親しみやすい!」といった意見もあって友達同士なら構わないと思いますが、信用を必要とする場合は別。せっかくの素晴らしい取り組みなのに、必要以上に発信しすぎて墓穴を掘る、なんてこともあるかもしれないので注意が必要です。

 

 

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苦しいときは忙しくする?

 

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 メンタルが疲弊しているときの私なりの対処法が1つあります。それは、今以上に忙しい生活にする。仕事を増やせるならそうしてもいいし、それ以外なら用事を増やしたりして過密スケジュールにします。そうすると、そこに意識を向けている暇がなくなるので、いつの間にか回復しているというものです。

 

平日出勤の会社員は週末に近づくにつれてメンタルが参ってくると聞いたことがありますが、それは肉体的な疲れた溜まっていくのと同時に、週はじめで慌ただしく仕事をしてある程度目処がたったぐらいの週末に、少し余裕ができてそういった負のイメージに意識が向いてしまうのだと私は勝手に推測しています。朝から晩まで働いて、家に帰ってお風呂に入ってすぐ寝る。そういう忙しい生活をしている間は、自分の仕事やこれからについて考える余裕もありませんが、ふと束の間の休みにそんなことを考えてしまったりします。もちろん、ずっと予定を詰め込んで息つく暇もない生活を続けることはできませんが、たまに「ヤバイな…」と思ったその一時だけでもやってみるとメンタルのことを考えないで済むので、ほんの少しではありますがエスケープできます。

 

 

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みんな“さん”付け?

 

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 いつからか周囲の人たちに対して、年下だろうと後輩だろうと、分け隔てなく「さん」付けで呼ぶようになりました。「君」や「ちゃん」といった呼び方はしません。1つの理由は、自分がそう呼ばれるのを好まないから。すごく年の離れた大先輩から「君」付けで呼ばれるといった例外をのぞけば、年の近い人からそう呼ばれた時点で距離をとるぐらいです。

 

もう1つは、(無意識に)相手に対してマウントを取りたい人が「君」や「ちゃん」を付けて呼ぶ傾向があるという調査結果をある記事で読んだから。これはとても納得できる結果で、周囲でそう呼んでいる人たちをよくよく観察してみると、偏見ではありますが、確かに相手より上に立とうとする傾向があったように思います。「仕事の姿勢や結果でそうすればいいのに…」といつも感じていました。「君」や「ちゃん」付けで呼ぶことを、打ち解けたくて使っている人もいると思いますし、親しみを持ってそう呼んでいるだけで意図はないという人がほとんどだと思います。ただ、そう呼ばれて嫌な人もいるし、そんな些細なことでダサいなと思う人もいる。単純に、相手に敬意を払って接すると考えたら、少なくても「ちゃん」は使いません。あくまで仕事上の話です。

 

 

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期待通りにやる?

 

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 私はデザインの仕事をしています。ご依頼いただく内容は大きく分けて2つ。相手の希望通りのものをつくる場合と、私に一部を委ねていただく場合です。ただ、期待をされているという意味では、どちらも期待通りのものをつくらなければいけません。

 

プロの仕事として、期待通りに応えることは最も重要なことだと捉えています。しかし、クリエイターという人たちは勝手なもので、その期待から外れたもので納得させようとしたりする。結果的に通らないと、相手の価値観などを言い訳にしたりしてしまうことも…。でも、周囲を見てみると、自分が通したいアイデアやデザインですんなり通ってしまっている人がいたりします。きっと、そういう人を見て自分もそうしたいと思ってしまうのでしょうが、実際その人たちは期待通りにやっています。それは、相手の期待を事前に変えているから。打ち合わせの場で、期待されるポイントをプレゼンで変えているわけです。だから、自分がこれがベスト!と思うものを自信を持って相手に渡すことができる。期待通りに対応すると聞くと、「言いなりになりたくない」といった声も上がるかもしれませんが、相手の期待を変えられたら、それは自分たちの“期待通り”に変わるはずです。

 

 

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丁寧に終えられる人?

 

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「この人は信頼できるな~」と心から思えたことがこれまで何度かあるんですが、その中の一例として、丁寧に終えられる人というのがあります。雑に扱わないのはもちろん、必要最低限のことだけやって終わろうとはしません。はじめたときと同じ熱量で最後まで接する人です。

 

例えば、場所を借りてイベントを行う。無理を言ってなんとか貸してもらった場所で、滞りなくイベントを終えたその後の行動が信頼を左します。ある人は、ゴミを置いて貸主に挨拶もせず帰っていきますが、別のある人は、しっかりと掃除までしてお世話になった人全員に挨拶をして帰ります。それは規約や契約書にはないので、やる必要はないことなのかもしれません。でも、そこで丁寧に対応できる人が私は信頼できます。サービスを停止するとき。契約を終了するとき。従業員が退職するとき。…いずれもモチベーションを高く持って相手と接することができるとは言い難い。でも、はじめるときは期待に胸を膨らませて一生懸命にやるのに、終わるときには最低限、というのはどこか気持ちわるいと感じてしまいます。丁寧に終えられる人。先日、私に仕事を依頼できなくなった方が、挨拶とは別にわざわざ手紙を送ってくださいました。そういうことです。

 

 

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白紙にテーマを見つける?

 

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 白い紙を前にして、いざアイデアを考えようとしても全然前に進まない…。課題を示されていても、「社会を良くするアイデア」など漠然としすぎていて、どこから手をつけてよいか分からない…。そうやって、考えることに苦手意識を持つようになっていくという話を聞きました。私も一度その壁にぶつかっています。

 

何もないところから考えはじめられる人もいるのかもしれませんが、ほとんどの人はそれができないと思っています。どうやって考えているかというと、課題や条件を自分で設定している。仮に前述の「社会を良くするアイデア」だったら、「社会が抱える介護の問題について地域ができること」とするだけで、グッと考えやすくなります。課題を明確にしたり自分で条件をつける力を、私は勝手に「見つける力」と呼んでいますが、企画力のある人は、その「見つける力」が高い。はじめは無作為に設定してもよいと思いますが、続けていると、漠然とした投げかけに隠れた本当の課題が見つけられるようになっていきます。それが見つけられたら、それはきっと素晴らしいアイデアになるはず。私の肌感では、手段を考える人はたくさんいますが、課題を見つけられる人はまだまだ少ない印象です。

 

 

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境界をつくらない?

 

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 これまで育った環境の影響もあり、いろんなことに対してあまり境界をつくっていません。一般的に区別されているような業種や分野でも、それぞれ関わり合っているし、手段が異なるだけでやっていることは同じだったりします。それは、物事に対しても同じ。

 

私はデザインの仕事に長く携わっていますが、人によっては私を「プロダクトの人」「グラフィックの人」と線を引きますし、グラフィックの中でも「紙の人」「Webの人」と区切る人もいます。でも、私には境界がありません。そこで求められる表現や考え方、環境が異なるだけ。先日も、「デザインがモノからコトに…」といった消費の目的の変化が書かれた記事に対して、「モノのデザインが大事だ!」「コトを重視するべき!」といったコメントが寄せられていましたが、どうしてそこで線引きするのかが分かりませんでした。そもそもモノのデザインはコトを多かれ少なかれ含んでいるし、コトのためにはモノに魅力がなければいけない。「どちらが〇〇」はありません。専門性を持つことも、分けて考えることも大事なことではありますが、あまり境界をつくり過ぎると、思考が狭くなってしまうような気がします。

 

 

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肌感覚が分からない?

 

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 打ち合わせや会議など、リモートで行うことがごくごく普通のことになってきて、対面する必要がないかのような風潮を感じます。内容のやりとりはできるし、相手の顔を見ながら話ができるから問題ない…。私はそれでも、対面を必要と考えています。それは、肌感覚が分からないからです。

 

正直なところ、私はそれで成立する仕事であれば出社しなくてもよいと考えています。ただ、リモートでは分からないこともあって、私の場合はそこを重要視しているので、できる限り対面して話をするようにしてきました。表現が難しいのですが、その場の空気感、熱量、表情、間(ま)、ニュアンスなど、繊細な部分を感じ取れるのと取れないのとでは、考えるための材料が足りないのです。受け手の質問力や感受性、相手の伝達技術の高さがあれば、たとえメールでもはっきりとその繊細な部分が汲み取れる場合も確かにありますが、すべての人がそうではありません。特に、抽象的なイメージを汲み取る際などは、リモートでは難しい。あくまで私の話ではありますが、「どうしてわざわざ直接打ち合わせをする必要があるの?」と思う人は、きっと具体的に示された情報だけを頼りにしているのではないでしょうか。

 

 

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大抵は上手くいかない?

 

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 こんなことを言うと信用を失ってしまうかもしれませんが、私がやっていることの大半は上手くいかないことがほとんどです。スムーズに事が運ぶことは、まずありません。メンタルが弱いので、頭を悩ませる問題や不採用に直面しては凹んでいます。それもあって、上手くいったときは年甲斐もなく飛び跳ねて喜んでいます。

 

上手くいかないことにフラストレーションを感じることは皆さんもあると思いますが、そこに対して、「上手くいくはず」と考えるか「基本的には上手くいかないもの」と考えるかで、行動が変わってきます。私は後者の考え。もちろん、自信を持って大いに期待してチャレンジすることが前提ですが、後者の考えの場合、つまずいてもすぐに「じゃあこうしてみよう!」と切り替えることができます。前者の場合は、上手くいかない要因に対してストレスを感じたり、他責思考になってしまったりする。次につまずかないように原因を洗い出して解決していくことは必要ですが、そこに囚われすぎていては、前に進むまで時間がかかってしまいます。「せっかくこの予定で進めようとしていたのに…」と思うこともありますが、基本的には上手くいかないものだと、肩の力を抜いて向き合うようにしています。

 

 

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王道が難しいから変化球?

 

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「今回は、珍しく直球ですね♪」だいぶ前ですが、私の提案にそんなリアクションが返ってきたことがありました。それまで提案していたものが、変わった切り口や手段だったのに対して、その時の提案が王道だったからです。相手の方は、また変わった切り口の提案がくることを期待してくださっていたのかもしれません。

 

意図的に王道ではなく、変化球を狙うことがないとは言いませんが、私は基本的には考え方を変えていません。課題の解決策を模索する中で、捉え方を見直したものがたまたま変化球になったりするだけ。既存の手法で問題なく解決できるものは、その方法で良いと考えます。ただ、前述の方のように、私が期待される多くは、変化球。なぜなら、王道であれば、もっとクオリティの高い提案ができる人が山ほどいるからです。既存の解決策なら、私に頼む必要がないと考えるのはごく自然なこと。それでも、今もお付き合いが続いている方々は、私がどのような提案をしても受け入れてくれています。それはきっと、王道であろうと変化球であろうと、解決するために模索した痕跡が見えるからだと勝手に思っています。王道か変化球かは、ただの結果です。

 

 

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2個以上つくる?

 

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「提案するのは1つでいい」…その考えに私は賛成です。でも、提案を1つしか作らないのは反対。それが最良の案であるかを判断できないまま、その1つを提案するのは相手に対して失礼ですし、何よりそれは怠慢になってしまいます。少なくても、2つ以上は作らないと、良い方を選んで提案することができません。

 

私は昔からたくさん提案を作っていましたが、それをよく思わない人も周囲にはいたように思います。質より量で魅せているように見えたり、数で努力をアピールしているように見えたのかもしれません。それが全くなかったといえば嘘になりますが、数を作る大半の理由は、そうしないとベストが選べなかったからです。1つ作って「これ以上はない!」と自信を持っていてもそれを説明できない。だから、比較して優れている方を選んで残った1つを最有力案として提案していました。経験を重ねた頭の良い人であれば、1つだけ作ったものがベスト案になるのかもしれませんが、私は未だに1つだけ作ることはしていません。昔に比べれば、1つでも納得してもらえるような説明はできるようになりましたが、それでも、それが私が出せる提案のベストであることは説明ができません。

 

 

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