デザインのあてな

身近なところにデザインのヒント

手間がかかることは競合が少ない?

 

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 勉強も兼ねて、時間を見つけては公募のデザインコンペに応募しています。結果はなんとも言えませんが、発表の際に応募数を公表しているものもあり、「こんなに多いんだ」「あれっこれしか応募がなかったの?」と意外な数字に驚くことがよくあります。考えられる理由でパッと浮かんだのは、手間。面倒であればあるほど、応募数が少ない傾向があります。

 

時代を表すユニークな川柳などはきっと応募数が多いでしょうし、応募方法が郵送ではなくメールやツイッターOKだったら、もっと多いはず。私が応募してきたコンペで言えば、設けられている提出期間が短い、提出物が多いなど手間のかかるものは、応募がイメージより少なかったように思います。もちろん、課題の難易度や応募に必要なスキル、コンペの知名度や副賞なども影響しているとは思いますが、やっぱり一番影響してそうなのは手間。主催する側の立場だったら、もし応募数を集めたかったら手間を極力無くすのがオススメです。…って考えると、コンペに限らず、手間が多い方に行けば競合は少ないということ。仕事などで、手間のかかる方を選びたくないケースは多々あると思いますが、思い切って選んだ方が、結果を勝ち取れる可能性が上がるかもしれません。

 

 

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相談されたくなさそうな人に相談?

 

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 誰かに相談することが多いタイプではありませんが、つい最近、ある人に相談しました。内容は他愛もないことですぐに解決したんですが、ふと、何でこの人に相談したのか?と気になって考えてみました。はっきりとした理由は見つけていませんが、以前おもしろい話を聞いたことを思い出しました。

 

「相談してほしい!と普段から口にしている人は、あまり相談されない。逆に、そういうのは面倒だから嫌だ!ってタイプの人に、まわりがよく相談している。」親身に応えてくれようとしている人よりも、煙たがる人の方が頼られるというおもしろい話です。あくまで、その人の経験談ですが、自分が相談したときを思い返してみると、不思議と当てはまりました。確かに、しょっちゅう相談を受ける人だったら、よっぽど相談されるのが大好きな人を除けば、自ら「相談して!」とは言いません。売れっ子が自ら営業しなくても引っ張りだこなのと似ています。もちろん声を掛ける人は、誰かのために役に立ちたくてそうしている優しい人なのだと思いますが、かえってその「役に立ちたい」が強く感じられすぎて、相談したいと思えなくなってしまっているのかもしれません。

 

 

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大変さは伝えなくていい?

 

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 最近でもありませんが、いろんな人たちの裏側を紹介する番組をよく目にします。そこに関心のある人が多いからそういった番組があるわけで、私も興味を持ってしまうので言える立場ではないんですが、あまりそこを見せて欲しくないのが正直なところです。

 

裏側ありきの表になってしまう…。例えば、長い時間をかけて周到に準備をしたことを知ってその人のパフォーマンスを観るのと、純粋にその人のパフォーマンスを観るのでは、確実に見方が変わってしまいます。また、そこに至るまでにどれだけ大変だったかを伝えるような内容も同じで、結果よりも大変だったことの方に注目してしまう。結果が芳しくない場合でも、「いや、それでも大変な思いをしてきたんだから上出来だ!」となってしまう。すごくわるい言い方をしてしまうと、頑張ったことが評価になるということです。誤解のないように言っておきたいのは、頑張っていることは素晴らしいこと。ただ、みんな大なり小なり頑張っているし、結果で勝負する世界なら見せない方がいいし、アピールする必要もない。表を見れば、裏側の努力はアピールせずとも伝わります。

 

 

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選択肢を減らす?

 

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「こんなものが欲しい♪」とネットで調べれば、数限りなく商品が見つかります。たくさんの選択肢の中から自由に選べることは確かに恵まれた環境ですが、良い面ばかりではありません。私たちは選択肢が多すぎるとストレスを感じるからです。風通しのよい会社や自由に発言できる場といった求められている環境でも、それをストレスに感じてしまうこともある。

 

自由には、自身で取捨選択をしながら進んでいかなければならないという圧力があります。それを心地よく感じる人や、負荷と感じつつもそれをエネルギーに変えられる人がいる反面、面倒だと感じたり、押しつぶされそうになってしまう人もいる。ある程度、制限をかけられたり、管理された方が、リラックスして力を発揮できる人もいます。私の個人的な印象では、自由を与えられた方が行動が起こす人は少ない。一方で、特定の条件下で何かを求めた場合の方が、行動を起こす人が若干多いように思います。具体的な課題に対しては意見がでるものの、漠然とした課題に対してはあまり出ない感じ。目の前の選択肢が多すぎる場合、私はあえて制限をかけて減らすようにしています。時と場合によりますが、その方がパフォーマンスがあがるケースもあるかもしれません。

 

 

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仕事を得るための仕事?

 

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 会社員、自営業、フリーランス…。どの立場でも、仕事の依頼が多い人とそうでない人がいます。はっきり言って私は決して多くはないので、依頼が絶えない人の行動を見習おうと勉強する毎日です。そんな私が真似ていることの1つに、“仕事を得るための仕事”があります。

 

単刀直入に言うと、仕事が来ないと言っている人は、仕事を得るために動いていません。動いていないと言うと語弊がありますが、行動が足りていない。ここで言う行動は、「仕事をください!」と声を掛けることではなく、「こういうのはどうでしょう?」と提案すること。例えば、今こんなことで悩んでいるという人がいて、その人に対してこちらから具体的な解決策を提示するようなことです。「うちなら解決できますよ!」と声を掛けるのではなく、「こんな解決方法を試してみませんか?」。ここ3ヶ月ほどは、今後の不安も少なからずあり、この“仕事を得るための仕事”をより積極的に着手するようになりました。当初は「あまり実らないだろう」と半信半疑でしたが、不思議と半分以上仕事に結びついています。無駄な労力と捉えず、これも仕事だと当たり前にできるようになれば、その頃には仕事が得られているかもしれません。

 

 

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原因を決めて安心する?

 

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 上手くいかない理由や失敗した原因を突き止めて明らかにするのは、大事なことだと思います。ただ、決めつけてそれで安心してしまったり、本当に考えなければいけないところから目をそらしてしまう可能性があります。それを意図的に他者に向けて使う場合も…。

 

「今抱えている課題が解決しないのは、〇〇の人たちのせいだ!」となったら、“〇〇の人たち”だけに矛先が向いて、そこさえちゃんとしてくれたら解決するといった仮想をしてしまいます。自分たちが攻撃されないように、今こうなっているのは私たちが原因ではありませんよ!と伝えるわけです。そして、私たちは本当にそうだと思って目を向けるべきところを見誤ってしまう。もちろん、それは原因の一端だと思いますが、それだけではない。以前、容疑者が釈放された際の変装が話題になったことがありましたが、事件の内容に世間の目が向かないように、別のところに目を向けさせた意図的なものでした。原因を特定して早期解決を目指したり、上手くいっていないところを改善していくことは、言うまでもなく大事なこと。でも、そこだけを見てはいけないと日々感じています。

 

 

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はやい理由は予備動作?

 

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 交番や案内所で目的の場所を尋ねたら、ほとんどの場合はすぐに答えが返ってきます。対応が早い。でもそれは、スピードが早いわけではありません。「場所を尋ねられるかもしれない」と思って、前もって準備をしているからです。

 

仕事が早いと言われる人も同じで、対応するスピードは周りと大して変わりませんが、準備しているためにスムーズに対応ができます。もちろん、対応するための引き出しが多かったり、経験ですぐに解決策を導き出せたりはすると思います。ただ、それだけではなく、何かしらの準備をしている。時間が掛かってしまう人は、その準備を頼まれたタイミングからはじめるからだと思います。「どんな相談が来るか分からない状態で、準備なんてできない!」といった声もあるかもしれませんが、分からなくても見当をつけることはできます。「私に相談するとしたらこんな内容だろう…」「やったことのないことだったら、こうやって進めようかな♪」「急ぎで対応してほしいときには、こうやって解決しよう!」早い理由は、予備動作。技術や判断力を磨いて対応スピードを上げることも1つですが、準備しておくことで無理なくスピードを上げることができるかもしれません。

 

 

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その人がデザインしたから◯◯?

 

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 このデザインが良いわるいと他人が意見するのは勝手だと思いますが、目にする発言の中には違和感を覚えるものもあります。それは、結果ではなく人に対して矛先が向いているとき。「その人がやったから〇〇」といった内容です。

 

それは確かに、大なり小なり誰でも持っていること。例えば、有名な画家の作品と言われたら、それは素晴らしいものとして観てしまう一方、無名の場合は作品を観て判断します。人が露わになっているほど、人にフォーカスする割合が増えていく。一見良い面ばかりのようですが、人がプラスのイメージだけを持っているとは限りません。人気デザイナーが大衆向けの商品をデザインした場合に、「お金持ちに庶民の感覚が分かるはずがない」といった意見が出るようなもの。利用者の目線でデザインを考えているにも関わらず、残念ながらそう見られてしまうわけです。私は、仕事の多くを公開していません。それは、「どこの馬の骨ともわからないデザイナーが…」と、デザインしたものが歪んで見られてしまうから。成果物の評価が下がってしまったり、依頼主に迷惑が掛かからないよう、仕事面では私がデザインしたことを伏せる機会が多いのが実際のところです。

 

 

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手数が多いほど丸裸?

 

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 シンプルに伝えることができず、長々と説明をしてしまったりすると、相手から「この人で大丈夫かな?」「あまり頭が良くない人だな…」と思われてしまいます。これは私の実体験で、伝えることが苦手だった頃に、後になって聞いた当時の私の印象です。

 

これは対面に限らず、メールでの伝達やSNSでの情報発信なども同じ。量や手数が多いほど、その人が丸裸になっていきます。語れば語るほど力量がバレる。私の場合、すでに頭が良くないのがバレているので、このブログのように毎日やっていることがありますが、頭の回転や表現力・文章力に自信がない人は、手数を増やさない方ことをオススメします。「誤字脱字が多いな…」「急に周りに合わせてきたな…」「このタイミングでそんなことを言うのか…」手数が多いほど、比較対象が増えますし、たった1回のミスでそのイメージがついてしまいます。「たくさん語ってくれた方が、人柄が分かって親しみやすい!」といった意見もあって友達同士なら構わないと思いますが、信用を必要とする場合は別。せっかくの素晴らしい取り組みなのに、必要以上に発信しすぎて墓穴を掘る、なんてこともあるかもしれないので注意が必要です。

 

 

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苦しいときは忙しくする?

 

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 メンタルが疲弊しているときの私なりの対処法が1つあります。それは、今以上に忙しい生活にする。仕事を増やせるならそうしてもいいし、それ以外なら用事を増やしたりして過密スケジュールにします。そうすると、そこに意識を向けている暇がなくなるので、いつの間にか回復しているというものです。

 

平日出勤の会社員は週末に近づくにつれてメンタルが参ってくると聞いたことがありますが、それは肉体的な疲れた溜まっていくのと同時に、週はじめで慌ただしく仕事をしてある程度目処がたったぐらいの週末に、少し余裕ができてそういった負のイメージに意識が向いてしまうのだと私は勝手に推測しています。朝から晩まで働いて、家に帰ってお風呂に入ってすぐ寝る。そういう忙しい生活をしている間は、自分の仕事やこれからについて考える余裕もありませんが、ふと束の間の休みにそんなことを考えてしまったりします。もちろん、ずっと予定を詰め込んで息つく暇もない生活を続けることはできませんが、たまに「ヤバイな…」と思ったその一時だけでもやってみるとメンタルのことを考えないで済むので、ほんの少しではありますがエスケープできます。

 

 

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みんな“さん”付け?

 

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 いつからか周囲の人たちに対して、年下だろうと後輩だろうと、分け隔てなく「さん」付けで呼ぶようになりました。「君」や「ちゃん」といった呼び方はしません。1つの理由は、自分がそう呼ばれるのを好まないから。すごく年の離れた大先輩から「君」付けで呼ばれるといった例外をのぞけば、年の近い人からそう呼ばれた時点で距離をとるぐらいです。

 

もう1つは、(無意識に)相手に対してマウントを取りたい人が「君」や「ちゃん」を付けて呼ぶ傾向があるという調査結果をある記事で読んだから。これはとても納得できる結果で、周囲でそう呼んでいる人たちをよくよく観察してみると、偏見ではありますが、確かに相手より上に立とうとする傾向があったように思います。「仕事の姿勢や結果でそうすればいいのに…」といつも感じていました。「君」や「ちゃん」付けで呼ぶことを、打ち解けたくて使っている人もいると思いますし、親しみを持ってそう呼んでいるだけで意図はないという人がほとんどだと思います。ただ、そう呼ばれて嫌な人もいるし、そんな些細なことでダサいなと思う人もいる。単純に、相手に敬意を払って接すると考えたら、少なくても「ちゃん」は使いません。あくまで仕事上の話です。

 

 

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期待通りにやる?

 

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 私はデザインの仕事をしています。ご依頼いただく内容は大きく分けて2つ。相手の希望通りのものをつくる場合と、私に一部を委ねていただく場合です。ただ、期待をされているという意味では、どちらも期待通りのものをつくらなければいけません。

 

プロの仕事として、期待通りに応えることは最も重要なことだと捉えています。しかし、クリエイターという人たちは勝手なもので、その期待から外れたもので納得させようとしたりする。結果的に通らないと、相手の価値観などを言い訳にしたりしてしまうことも…。でも、周囲を見てみると、自分が通したいアイデアやデザインですんなり通ってしまっている人がいたりします。きっと、そういう人を見て自分もそうしたいと思ってしまうのでしょうが、実際その人たちは期待通りにやっています。それは、相手の期待を事前に変えているから。打ち合わせの場で、期待されるポイントをプレゼンで変えているわけです。だから、自分がこれがベスト!と思うものを自信を持って相手に渡すことができる。期待通りに対応すると聞くと、「言いなりになりたくない」といった声も上がるかもしれませんが、相手の期待を変えられたら、それは自分たちの“期待通り”に変わるはずです。

 

 

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丁寧に終えられる人?

 

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「この人は信頼できるな~」と心から思えたことがこれまで何度かあるんですが、その中の一例として、丁寧に終えられる人というのがあります。雑に扱わないのはもちろん、必要最低限のことだけやって終わろうとはしません。はじめたときと同じ熱量で最後まで接する人です。

 

例えば、場所を借りてイベントを行う。無理を言ってなんとか貸してもらった場所で、滞りなくイベントを終えたその後の行動が信頼を左します。ある人は、ゴミを置いて貸主に挨拶もせず帰っていきますが、別のある人は、しっかりと掃除までしてお世話になった人全員に挨拶をして帰ります。それは規約や契約書にはないので、やる必要はないことなのかもしれません。でも、そこで丁寧に対応できる人が私は信頼できます。サービスを停止するとき。契約を終了するとき。従業員が退職するとき。…いずれもモチベーションを高く持って相手と接することができるとは言い難い。でも、はじめるときは期待に胸を膨らませて一生懸命にやるのに、終わるときには最低限、というのはどこか気持ちわるいと感じてしまいます。丁寧に終えられる人。先日、私に仕事を依頼できなくなった方が、挨拶とは別にわざわざ手紙を送ってくださいました。そういうことです。

 

 

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白紙にテーマを見つける?

 

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 白い紙を前にして、いざアイデアを考えようとしても全然前に進まない…。課題を示されていても、「社会を良くするアイデア」など漠然としすぎていて、どこから手をつけてよいか分からない…。そうやって、考えることに苦手意識を持つようになっていくという話を聞きました。私も一度その壁にぶつかっています。

 

何もないところから考えはじめられる人もいるのかもしれませんが、ほとんどの人はそれができないと思っています。どうやって考えているかというと、課題や条件を自分で設定している。仮に前述の「社会を良くするアイデア」だったら、「社会が抱える介護の問題について地域ができること」とするだけで、グッと考えやすくなります。課題を明確にしたり自分で条件をつける力を、私は勝手に「見つける力」と呼んでいますが、企画力のある人は、その「見つける力」が高い。はじめは無作為に設定してもよいと思いますが、続けていると、漠然とした投げかけに隠れた本当の課題が見つけられるようになっていきます。それが見つけられたら、それはきっと素晴らしいアイデアになるはず。私の肌感では、手段を考える人はたくさんいますが、課題を見つけられる人はまだまだ少ない印象です。

 

 

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